【第百六十五話】楚公の策
217年仲春 益州漢中郡・南鄭
漢中盆地にも春の気配が訪れていた。
秦嶺の峰々にはなお白雪が残るが、南鄭の城下には若葉が芽吹き始めている。
楚公曹操の政庁では朝早くから軍使が慌ただしく出入りしていた。
「急報!」
軍使は曹操の前に膝をつく。
「西涼の馬超、韓遂と盟を結び挙兵。関中十部を糾合し、騎兵十万を率いて長安へ侵攻を開始いたしました!」
大広間は騒然となる。
曹操は肘を置いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「……天下が動き始めたな」
その口元にはかすかな笑みが浮かぶ。
「我らの時機が来た」
その一言だけで軍議が召集され、重臣たちが次々と集う。
龐統、徐庶、黄権、賈詡、彭羕、楊修が左側に並び、曹洪、夏侯淵、黄忠ら武官が右側に並ぶ。
曹操は諸将を見渡し静かに問い掛けた。
「諸君。西涼が立った。我らはこの戦に加わるべきと思うか?」
最初に進み出たのは黄権であった。
「殿、馬超の挙兵は漢のためではなく、父・馬騰を失った私怨によるものでしょう。しかし、それでも我らと利害は一致しております」
黄権は地図の上へ手を置く。
「鄭は河北戦役から馬騰との戦いと戦続きで疲弊しております。この機を逃すべきではありません。」
続いて龐統が羽扇を揺らしながら笑う。
「黄権殿の申される通りです。戦とは正義だけで動くものではなく、それぞれの利で動くもの。馬超が私怨で槍を振るおうが、我らが天下の覇権を望もうが、敵は同じ孫堅。利用できる者は利用する。それが乱世というものでしょう。」
その言葉に徐庶も頷いた。
「馬超は勇将です。関中十部と羌・氐の騎兵まで加われば、その圧力は図りしれぬもの。そこに我らが呼応すれば関中の覇権は一挙に殿に傾きましょう」
三人の意見は一致していた。
共闘するべきである、と。
となりに並ぶ彭羕も腕を組み、笑みを浮かべながら賛意を示す。
「面白いではありませんか。孫堅ほどの英雄が、父を討たれた若獅子に追われる姿を見られるとは」
しかし、一人だけ何も語らぬ男がいた。
賈詡である。
曹操は視線を向けた。
「賈詡よ。お前はいかに考える」
賈詡は閉じた目を開き答える。
「皆様の申されることに異論はございません」
それだけだった。
曹操は眉を上げる。
「……終わりか?」
「はい」
再び沈黙。
誰もが首を傾げる。
賈詡らしからぬ、あまりにも短い答えだった。
しかし曹操だけはその沈黙の意味を察していた。
(賈詡め……何か見えているな)
曹操はそれ以上問わなかった。
「よい。まずは馬超へ使者を送れ。楚は馬騰殿の敵討ちに助力するとな」
---
長安へ向かう西涼軍本営。
楚からの使者は曹操自筆の書状を馬超へ差し出した。
馬超は封を切る。
静かに読み進めるにつれ、その表情は険しくなっていく。
「……曹操も兵を出すだと。」
声には露骨な不満が滲んでいた。
「これは父の弔い合戦だ。曹操の野望に利用される戦ではない」
馬超は書状を机へ置いた。
その様子を見た韓遂は苦笑する。
「馬超。政治とはそういうものだ。理想論だけで勝てるほど戦は甘くない」
馬超は黙ったままだ。
韓遂は続ける。
「曹操は奸雄。しかし奸雄だからこそ、孫堅という強敵を倒すには力となる。利用されると思うな。こちらが利用してやればよい」
その言葉に馬超はしばらく考え込む。
やがて深く息を吐き、使者を呼び入れ告げた。
「楚公へ伝えよ。我らは楚軍の参戦を歓迎する。だが、この戦の先陣は我らが務める」
使者は深々と頭を下げた。
---
南鄭。
使者から返答を聞いた曹操は満足そうに笑い、軍議の間へ諸将を集める。
「曹洪!」
武官筆頭の漢が一歩進み出る。
「はっ!」
「お前を総大将に任ずる。兵五万を率い、陳倉道より関中へ進め。」
曹洪が跪き節を受ける。
「黄権!そなたは漢中侵攻の際にも的確な助言を余にもたらし、此度も関中連合軍との共闘策をいの一番に献策した。見事である。その才で参軍として曹洪を補佐せよ」
黄権は静かに礼を取る。
「謹んで拝命いたします。」
曹操は地図の陳倉道へ指を置いた。
「馬超が長安へ向かうならば、我らはこの道より北上し、合流、鄭の奴らに圧力を掛ける」
諸将が一斉に応じる。
「ははっ!」
その中で、ただ一人。
賈詡だけは地図のさらに南。
険しい秦嶺の山並みを静かに見つめていた。
誰も気付かぬほど小さく、その口元がわずかに動く。
「……まだ、その時ではないな」
曹操もまた、賈詡の視線の先を一瞬だけ見やると何も言わずに微笑した。
やがて南鄭城の城門が大きく開かれる。
曹洪を総大将とする五万の楚軍は軍旗を林立させながら陳倉道へ向けて進軍を開始した。
西より馬超率いる関中連合軍十万騎。
南より曹洪五万。
二つの大軍勢が長安へ迫る。
鄭に最大の危機が訪れようとしていた。




