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【第百六十四話】錦馬超

<第十五章> 関中争乱


217年仲春 涼州


西涼の空には、なお冬の冷気が残っていた。

果てしなく広がる草原を、乾いた風が吹き抜ける。

無数の馬が草を食み、その向こうでは涼州騎兵たちが槍を磨き、軍馬を鍛えていた。


その中心に立つ一人の漢(おとこ)。

長身に白銀の鎧をまとい、獅子のような眼光を持つ西涼一の猛将――馬超孟起。

人は彼を畏敬を込めてこう呼ぶ。

「錦馬超」

その美しい容姿と戦場では鬼神のごとき武勇から生まれた異名である。


その日、一騎の早馬が血相を変えて陣へ飛び込んできた。

「ご報告申し上げます!」

馬は倒れ込むように止まり、使者は泥にまみれたまま馬超の前へ跪(ひざまづ)く。

「馬超様。……馬騰様が……」

その一言だけで馬超は何かを悟った。

「……申せ」

「滎陽での戦にて……戦死なされました」

辺りは静まり返った。

風だけが旗を揺らしている。

「敵は……孫堅率いる鄭軍……」

使者の声が震える。

「最後まで皇帝陛下への忠義を胸に、壮絶な最期でございました……」

馬超は何も言わなかった。

ただ遠く、西の空を見つめていた。

脳裏に幼き日の記憶が蘇る。


まだ幼かった頃。

馬超は父・馬騰の後ろを必死に追い掛けていた。

「父上!待ってください!」

馬騰は笑いながら馬上で振り返る。

「孟起、焦るな。己の強さのみを追い求めるのではなく、民を守るための強さを身に付けてこそ真の漢(おとこ)だ」

幼い馬超には難しい言葉だった。

それでも父の背中は誰よりも大きく見えた。


父は朝廷より厚く信任され、皇帝直属軍を率いる総帥であった。

漢室に忠を尽くし、陛下を救った英雄。

西涼の民は皆、馬騰を誇りとしていた。

馬超もまた、いつか父のようになりたいと願っていた。

馬騰は幼い息子の頭を撫でながら言った。

「覚えておけ、孟起。馬の一族は漢(かん)のために生き、漢(かん)のために死ぬのだ」

その言葉は馬超の胸に深く刻まれていた。



---


父の戦死の報を聞き、馬超の拳から血が滴っていた。

知らぬ間に爪が掌へ食い込んでいたのである。

やがて彼は天を仰ぎ、大地を震わせるような叫びを上げた。

「父上ぇぇぇぇぇっ!!」

悲痛な絶叫が西涼の空へ響き渡る。

兵たちは皆、頭を垂れた。

馬超は膝をつき大地を叩いた。

涙が止まらなかった。

英雄であり、尊敬すべき父であり、憧れであった漢(おとこ)は、もう二度と帰ってこない。


しばらくして馬超はゆっくりと立ち上がる。

その瞳には悲しみではなく、燃え盛る炎が宿っていた。

「孫堅……」

低く、獣のような声。

「父の仇。必ず、この馬超が討つ!」

その誓いは西涼の空へ放たれた。



---


数日後。

馬超は金城へ赴き一人の老将を訪ねた。

その名は韓遂。

西涼の驍将にして、馬騰とは若き日から幾度も戦い、幾度も酒を酌み交わした戦友(とも)である。

報せを聞いた韓遂は、静かに酒杯を置いた。

「……逝ったか」

その一言には、長年の友情が滲んでいた。

「若い頃は毎日のように剣を交えた」

韓遂は遠くを見る。

「勝負が終われば共に酒を飲み、天下を語った。俺は自由に生きることを信条としていたが、やつは漢(かん)を守ることだけ、その事だけに身を捧げる漢(おとこ)だった」

しばらく沈黙が流れる。

やがて韓遂は杯を天へ掲げた。

「馬騰よ。まだ早い……」

杯を地へ注ぐ。

それが西涼流の別れであった。


馬超もまた黙って酒を注ぐ。

韓遂は静かに言った。

「馬超。父の無念はお前だけのものではない。我ら西涼すべての無念だ」

馬超は深く頷いた。

「韓遂殿。我らの無念を晴らすため力をお貸しください」

韓遂の眼光が鋭く光る。

「ああ。馬騰の名誉のために。そして孫堅に西涼の怒りを思い知らせてやる」


その日、西涼各地へ檄文が放たれた。

“馬騰将軍、国に殉ず。今こそ共に立ち、将軍の無念を雪(そそ)ぐべし。西涼の勇士よ、馬超の旗の下へ集え”

檄は瞬く間に広がった。

隴西、武威、酒泉、張掖、敦煌。

さらに羌族、氐族、胡族までもが呼応する。

関中十部の諸将は次々と兵を率いて集結した。

馬玩、梁興、程銀、侯選、李堪、楊秋、成宜。

そして馬超、韓遂配下の精鋭達。


草原を埋め尽くす軍馬、響き渡る角笛。

集まった騎兵は十万。

天下屈指の騎馬軍団であった。

馬超は白馬へ跨りその先頭へ立つ。

白銀の槍を高々と掲げる。

「進軍!」

十万の騎兵が一斉に馬腹を蹴った。

轟音とともに大地が震える。

黄土が天を覆い、巨大な砂煙が西方の空を染め上げた。

その奔流はまるで黄河そのものが東へ流れ出したかのようであった。

彼らの目指す先は――関中。

父の仇を討つため、そして西涼の誇りを取り戻すために。

その怒濤の進軍はやがて天下を揺るがす新たな戦乱の幕開けとなるのであった。

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