【第百六十三話】幕間 定軍山の戦い
215年晩秋 漢中郡・定軍山
定軍山は漢中盆地を見下ろす峻険な山岳である。
張衛はその山頂へ本陣を築き、眼下に広がる山道を見渡していた。
「ここを越えられると南鄭は危うい」
張衛の左右には軍師・閻圃と朴胡、杜濩が控えており、その背後には五斗米道最強の精鋭・天師衛五千。
さらに一万の兵が幾重にも柵を築き、山全体を要塞としていた。
閻圃が静かに頷く。
「ここが漢中最後の盾にございます」
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山麓。
数日間、徐庶は数騎のみを従え、周囲の地形を丹念に見回り、近くの村民にも話を聞いて回っていた。
谷、尾根、獣道。
そして山腹を流れる清流。
本陣へ戻った徐庶は地図を広げる。
「定軍山には山上に水源がある様子で、数日の観察の間、給水を試みる敵兵は見当たりませんでした」
黄忠が腕を組む。
「兵糧はどうであろう」
「おそらく、我らよりも陽平関に近く、輸送、備蓄する時は十分あったと考えます」
夏侯淵は眉をひそめた。
「包囲では落ちぬか」
徐庶は静かに頷く。
「我らの兵は敵より多く、この山中で長く兵站を維持することは困難です。先に兵糧が尽きるのは我らでしょう」
幕舎が静まり返る。
徐庶は地図へ六つの印を置いた。
「ゆえにこちらは波状攻撃を行いましょう。軍を五千ずつ六隊に分け、昼夜を問わず交代で攻撃を行います。敵に休息を与えず、疲弊させ続けるのです」
龐統が小さく笑う。
「実に徐庶らしい小気味のよい策だ」
夏侯淵は立ち上がった。
「よし。第一隊は俺が率いる」
黄忠は思わず声を荒げる。
「なりませぬ!」
徐庶も続く。
「夏侯将軍が前へ出られれば敵は必ず将軍を狙いましょう」
しかし夏侯淵は笑った。
「だからこそだ」
槍を肩へ担ぐ。
「将が率先して戦わねば兵は命を懸けられぬ。兵に死地を命じる以上、俺もまた先頭へ立つ」
黄忠と徐庶は顔を見合わせる。
やがて徐庶は静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
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翌朝より楚軍の波状攻撃が始まった。
第一隊。
第二隊。
第三隊。
攻撃は途切れることなく続く。
昼も夜も山上では絶え間なく鬨の声が響いた。
張衛は槍を振るい兵を励ます。
「持ちこたえよ!天師様が我らを見守っておられる!」
兵たちは必死に戦い続けた。
しかし疲労は少しずつ積み重なっていく。
三日後。
閻圃は眼下の曹操軍を静かに見つめていた。
「……やはり」
張衛が振り向く。
「何か?」
「敵の攻撃部隊は周期的に動いております」
閻圃は目を細める。
「我らの兵は消耗してきており、このままでは兵数に勝る曹操軍が最後に勝ちます」
張衛も黙って頷いた。
「ならば」
閻圃は山麓を見据える。
「敵将夏侯淵を討ちます。将を討てば士気は落ち、やつらも退くこととなりましょう」
張衛は閻圃の策を聞き即座に決断した。
「杜濩!」
一人の大男が前へ進み出る。
「天師衛を率い直ちに出撃しろ。山麓に伏せ、閻圃の合図を待て」
杜濩は拳を胸へ当てた。
「御意」
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次の日。
曹操軍六隊の攻撃が一巡し、夏侯淵の旗が山麓へ現れる。
その瞬間、山頂の閻圃が赤旗を掲げた。
「今です!」
杜濩が槍を掲げる。
「天師衛!進め!」
五千の精鋭が山林から一斉に躍り出る。
木々を縫い、崖を駆け登り、まるで山そのものが牙を剥いたようであった。
「敵襲!」
楚軍は一瞬で混乱し、夏侯淵はたちまち包囲された。
杜濩が一直線に迫る。
「くらえ!」
長刀が振り下ろされる。
その刃が夏侯淵へ届こうとした瞬間――
「夏侯将軍!」
山腹から一筋の矢が風を裂いた。
黄忠であった。
長弓から放たれた矢は稲妻のように飛び、杜濩の胸を正確に射抜いた。
「ぐっ……!」
杜濩は落馬しそのまま絶命した。
同時に山林から黄忠率いる伏兵が飛び出した。
「将軍を守れ!敵部隊を蹴散らすのだ!」
天師衛は不意を突かれ隊列を乱す。
夏侯淵は黄忠のもとへ退いた。
「黄忠殿!」
黄忠は静かに笑う。
「徐庶殿より承っておりました。将軍が前へ出れば、その機を狙う敵が現れる、と」
夏侯淵は苦笑いを浮かべた。
「将の命をも餌とするとは、流石玄鶴と呼ばれた漢。しかし、命拾いした。感謝いたす」
乾坤一擲の天師衛の奇襲作戦は潰え、曹操軍の波状攻撃はなお勢いを増した。
張衛軍の兵は疲弊し、傷つき、立つ者も少なくなっていく。
張衛は静かに周囲を見回し、閻圃も深く息を吐く。
「……これ以上戦えば全滅は免れません」
張衛は苦しげに拳を握った。
「退く。南鄭へ退却するぞ」
天師衛が殿となり五斗米道軍は山を下った。
その背を見送りながら夏侯淵は山頂へ軍旗を立てた。
定軍山は楚軍の手に落ちた。
夏侯淵は黄忠へ守備を命じる。
「定軍山を頼む。私は陽平関へ向かう」
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山道を駆け抜けた夏侯淵軍は陽平関の背後へ現れた。
背後からの楚軍の登場に城壁上の楊昂と楊任は愕然とする。
その二人に対して、曹操本隊より曹操が数歩前に進み、馬上から静かに告げる。
「敵将に告げる。勝敗は決した。降伏せよ」
二人は互いに顔を見合わせる。
やがて武器を置き、深く頭を垂れた。
「……開門いたします」
巨大な城門がゆっくりと開かれ、陽平関は陥落した。
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数日後。
十万の曹操軍は南鄭を包囲した。
張魯は城壁の上から場内の信者たちを見渡した。
老若男女、皆、不安げな表情で自分を見つめている。
張魯は静かに目を閉じた。
「これ以上、信者たちを苦しませるわけにはいかぬ」
張衛も兄の隣で頷いた。
「……降伏いたしましょう」
城門が開かれる。
張魯、張衛兄弟は後ろ手に手を縛り曹操の前に跪いた。
曹操は二人を見つめ、静かに言った。
「張魯よ。余はお前たちの信仰を禁じるつもりはない」
兄弟は驚く。
「ただし守るべきは法が第一。それを守る限り、信仰は自由である」
張魯は目を見開いた。
「……我らを赦されるのですか」
曹操は微笑む。
「そなたを信じる者のためにその知恵と徳を尽くせ」
張魯は深く拝礼した。
「ありがたき幸せ」
張衛も膝をつく。
その後ろで閻圃、朴胡も静かに頭を垂れた。
張衛は顔を上げる。
「我ら天師衛。己の信仰と民を守ってくださる曹操様のため身名を賭してお仕えいたします」
曹操は静かに頷いた。
「歓迎しよう」
こうして漢中は曹操の版図へ加わった。
益州の出口にして関中への扉。
その要衝を手に入れた曹操は西方最大の勢力として天下へ号令する地位を築く。
しかし、その版図の拡大はやがて鄭の孫堅、斉の劉備との決戦を招くこととなる。
天下は再び、大きく動き始めようとしていた。




