【第百六十二話】幕間 漢中侵攻
215年初秋 益州蜀郡・成都
荊州・益州を平定した曹操は、益州南中の豪族とも誼を通じてその勢力を指揮下に加え、益州の統治は軌道に乗りつつあった。
そして曹操の視線はさらにその先を見据えるのだった。
「天下の趨勢はなお定まらぬ」
静まり返った広間に曹操の声が響く。
「東には斉公劉備。中央には鄭公孫堅。いずれ両雄と雌雄を決する日が来よう。その前に我らは何を為すべきか」
群臣は互いに顔を見合わせる。
やがて一人の漢が進み出た。
黄権である。
「曹操様。漢中をお取りください」
曹操は静かに目を向ける。
「理由を申せ」
黄権は地図の漢中を指した。
「漢中は蜀の手足にございます。ここを取らねば我らの自由はありませぬ」
さらに指を北へ滑らせる。
「また漢中は関中へ至る要衝でもあります。ここを得れば長安を望み、さらに司隷へ兵を進める道も開けます。孫堅や劉備が動き出す前に、まず漢中を征することこそ急務にございます」
しばしの沈黙。
やがて曹操は大きく頷いた。
「黄権の言は誠、理に適う。漢中を制することで我が覇道は更なる高みに到る」
その声に群臣の表情が引き締まる。
「郭嘉と曹仁へ使者を送れ。荊州軍を呼び寄せる。荊州よりの来援が着き次第、十万の軍をもって漢中へ進む」
その号令とともに成都全土が動き始めた。
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一ヶ月後。
荊州より援軍が到着した。
黄忠を主将として、霍峻、向寵。
彼らを迎えた曹操は自ら軍勢を閲兵した。
先鋒三万。
大将・夏侯淵。
副将・黄忠。
参軍・徐庶。
雷銅、呉蘭、霍峻、向寵。
続いて本隊七万。
副将・曹洪。
参軍には龐統、賈詡、張松、彭羕。
曹真、曹休、劉封、黄権、李厳、孟獲、王平、張翼、張嶷、句扶、柳隠、曹彰。
そして成都の留守には、
主将・夏侯惇。
呉懿、龐義。
「出陣!」
十万の軍勢が成都を発つ。
蜀の大地がその軍靴の響きに震えた。
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その頃、漢中郡・南鄭。
五斗米道の教団本拠。
大祭殿には香煙が立ち込めていた。
教祖・張魯は弟・張衛を前に静かに告げる。
「曹操が来るとの報が成都の信者より入りました」
張衛は深く頭を垂れた。
「天師。漢中の防備は俺にお任せください。必ずや天師の御教えを守り抜いてご覧に入れましょう」
張衛は立ち上がる。
率いる兵は三万五千。
参軍・閻圃。
楊昂、楊任。
その中には五斗米道きっての五千の精鋭がいた。
その名は『天師衛』
漢中周辺の異民族・板楯蛮より選び抜かれた勇士たちである。
率いるは朴胡と杜濩。
その鎧には護符が縫い込まれ、全員が五斗米道への深い信仰で結ばれていた。
張衛は祭壇へ進み香を捧げる。
「天師の御加護あれ」
兵たちも一斉に拝礼する。
「天師万歳!」
その声は山々へこだました。
信仰を力へ変える軍勢が漢中の要衝・陽平関へ向け出陣した。
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215年仲秋
曹操軍は険しい金牛道へ足を踏み入れていた。
切り立つ断崖。
人馬一騎がようやく通れる細道。
兵站を担う黄権と李厳は、昼夜を問わず補給路の整備を続けた。
橋を架け、岩を砕き兵糧を前線へ送り続けた。
やがて軍勢は剣閣へ至る。
天を衝く断崖とその中央に築かれた巨大な関。
曹操は思わず馬を止めた。
「見事だ……」
しばらく見上げた後、小さく笑う。
「この地を一人の将が守れば、万人といえども容易には破れまい」
その天然の要害を越え白水関を越えた先。
ついに漢中の入口、陽平関が姿を現した。
それは秦嶺山脈と大巴山脈という益州を守る巨大な山脈の間に築かれた堅牢な関であった。
夏侯淵は到着するやいなや、即座に攻撃準備に取りかかる。
雲梯、衝車、井闌車。
ありとあらゆる攻城兵器を用意し攻撃を開始した。
しかし、山上から降り注ぐ矢、巨大な岩、城壁からは熱湯や石礫が降り注ぎ曹操軍は近づくことすら困難であった。
城壁上、張衛は静かに敵軍を見下ろしていた。
「陽平関は函谷関にも劣らぬ天下の険よ。容易く落ちるものではないわ」
十日、攻防は続き曹操本隊が到着した。
曹操は夏侯淵より苦戦している旨の報告をうけ、苦笑し曹洪を振り返る。
「我らはつくづく関の戦いには難渋するな。董卓との戦でも汜水関では徐栄にやられ、おまえのお陰で命拾いしたな」
「はっ!しかし此度はあの時とは異なり準備万端、兵力も我らが勝っております。」
「曹洪。おまえの言う通りだ。我らの力、見せつけてやろうぞ」
次の日、曹操軍十万が一斉に総攻撃を開始した。
兵力の優位を活かすために広く布陣し、さらに波状攻撃を行った。
しかし、陽平関はなお揺るがなかった。
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夜、曹操本陣。
軍議には重苦しい空気が漂っていた。
「やはり関の戦は厄介だな」
曹操の呟きに誰も答えられなかった。
居並ぶ将達は打開策を見いだせず、ただ押し黙っていた。
その時、遅れて幕舎へ入ってきたのは龐統であった。
曹洪が眉をひそめる。
「龐統、軍議へ遅参とは感心せぬな」
龐統は飄々と笑う。
「景色があまりに良かったもので」
場に苦笑が漏れ、いくらか重苦しい雰囲気が緩和される
そして龐統は地図を広げた。
「陽平関を攻めるから落ちぬのです」
全員が顔を上げた。
「何?」
「我らの目的は陽平関ではなく南鄭」
龐統の指が定軍山を示す。
「周囲を見て参りました。山民からも話を聞きましたが、この定軍山を越えれば南鄭へ通じる道があります」
賈詡が目を細め険しい顔になる。
「中入り策は危険ではないか?」
徐庶も賈詡に同意する。
「退路は細く、失敗すれば全滅は避けられませぬ」
「しかし成功すれば陽平関の背後を突けます」
龐統は曹操に向かい拱手する。
龐統の策を聞き夏侯淵が立ち上がる。
「その役、是非私が」
黄忠も続いた。
「副将としてお供いたします」
曹操は静かに頷く。
「よかろう。中入りの大将は夏侯淵に任せる」
そして立ち上がり、地図の陽平関を拳で叩いた。
「陽平関を抜き漢中をこの手にするために」
続いて定軍山を指す。
「勝負はこの地、定軍山だ!」
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翌日、陽平関。
攻城戦が続く中、一人の密偵が張衛のもとへ駆け込んだ。
「報告!曹操軍の一部が東へ!」
閻圃は地図を見た瞬間、静かに目を閉じた。
「中入り策でしょうな」
張衛もすぐに理解する。
「兵を分け、我らも向かうぞ」
陽平関守備に楊昂、楊任の二万。
そして定軍山へ向かう一万五千を張衛自らが率い、閻圃も共に向かう。
先鋒を担うのは天師衛五千、朴胡と杜濩。
「漢中を守り抜くため、いざ定軍山へ!」
張衛の号令とともに軍勢は山道へ消えていく。
こうして漢中攻防戦の命運は陽平関から定軍山へと移るのであった。




