【第百六十一話】志とは
217年新春 司隷河南尹・洛陽
洛陽には新年を祝う声はなく、ただ静かに孫堅率いる一万三千の軍勢を迎え入れた。
皇軍を率いた馬騰は討死、楊彪も此度の騒動の責を負い自害した。
あまりにも多くの犠牲を払った年始であった。
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孫堅が政庁へ入ると待っていたのは司馬朗と劉曄であった。
二人は深く拝礼する。
「殿、連戦よりご無事のお戻り何よりにございます」
孫堅は二人の姿を見て安堵した。
「無事であったか」
司馬朗は苦笑いをうかべる。
「楊彪殿の命により政庁へ留め置かれておりました。幸い危害は加えられませなんだが」
劉曄も続ける。
「楊彪殿は最後まで朝廷を乱すことだけは避けようとしておられました」
その言葉に孫堅は静かに目を閉じた。
「……そうか」
やがて近侍が現れる。
「陛下がお待ちにございます」
孫堅は頷くと、一人、宮中へ向かった。
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宮中
献帝は玉座に座していた。
しかし、その姿は以前よりも一回り小さく見えた。
わずかの間にあまりにも多くを失ったのである。
楊彪、己が幼き日より朝廷を支え続けた功臣。
そして馬騰、命を懸けて皇室を守ろうとした勇将。
だが二人はもういない。
孫堅は静かに跪いた。
「臣、孫堅。拝謁いたします」
献帝はしばらく何も語らなかった。
やがて、小さく口を開く。
「……楊彪や馬騰の蛮行は許されざること。鄭公が無事であり安堵した。だが……、何故二人はこのような蛮行を……」
口から零れ落ちたのは悲痛な嘆きであった。
孫堅は静かに顔を上げる。
「陛下。臣らは皆、それぞれの正義を信じておりました。楊彪殿も、馬騰殿も、そして臣も。ただ、その道が違っただけにございます」
献帝は俯く。
「朕は……もう誰も失いたくない」
孫堅は深く頭を垂れた。
「陛下。臣には二心ございませぬ。この命尽きるその日まで、漢を支え続けることをここに誓います」
静かな声。
しかし、その一言には四十年近く戦場を歩み続けた男の覚悟が宿っていた。
献帝はゆっくりと頷いた。
「……頼む」
その短い言葉に、皇帝としてではなく一人の人間としての願いが込められていた。
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その日の夕暮れ。
孫堅は洛陽の治安維持を周瑜に命じ、程咨だけを伴い洛陽郊外を訪れていた。
冬枯れの丘、そこには一基の墓があり、『忠武侯朱儁』と墓碑には刻まれていた。
孫堅は酒を供え、静かに腰を下ろす。
程咨は少し離れた場所で黙って控えていた。
長い沈黙の後、孫堅が口を開く。
「朱儁殿。また、多くの戦友や政敵を失いました」
風が草を揺らす。
「……馬騰殿」
孫堅は苦笑いとともに杯を呷る。
「俺と変わらぬ志をもつ漢であった。それなのになぜ我らは刃を交えねばならなかったのか……」
答える者はいない。
ただ風だけが墓前を吹き抜ける。
孫堅は墓石へ手を置いた。
「楊彪殿もまた、漢に尽くす御仁であった。俺と同じ志だったはず。それでも道は分かたれた……」
静かに目を閉じる。
「志を貫くとは、これほど多くの犠牲を生むものなのですな」
その後ろ姿はいつしか老将のものとなっていた。
白いものが混じり始めた髪。
戦傷の積み重なった身体。
若き日に虎と恐れられた漢にも確実に歳月は流れていた。
「……急がねばならぬ」
小さく呟く。
「貴殿との誓いを果たすために残された時間は、多くはあるまい……」
程咨はその背中を見つめることしかできなかった。
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一方その頃、遠く益州
一人の漢が楊修から勅書を受け取っていた。
曹操その人であった。
静かに文を開きその内容を読む。
「楚公……か。楊彪殿らしい最期の一手だ」
小さく笑う。
「よかろう。貴殿らの策にのってやろうではないか」
こうして曹操は楚公を称することとなる。
中央の鄭公・孫堅。
東に斉公・劉備。
南に楚公・曹操。
河北には趙公・袁尚。
天下は四公によって分かたれる、新たな時代へと歩み始めた。
しかしその陰で、西涼の大地では一人の武人が父の訃報を聞いていた。
錦の戦袍をまとい、燃えるような眼差しを持つ漢。
馬騰の子・馬超は血が滲むほど拳を強く握り締める。
「孫堅……」
低く響く声。
「父の仇はこの俺が必ず討つ!」
その怒りは、やがて天下を再び揺るがす烈風となって吹き荒れることを、この時まだ誰も知らなかった。
――第十四章、ここに終幕。




