【第百六十話】老執の果て
217年晩冬 司隷河南尹・滎陽
滎陽の戦いは終わった。
白雪の上には皇軍と鄭軍の兵が折り重なるように倒れている。
その中央には西涼の雄・馬騰の亡骸。
孫堅は静かにその前から立ち上がると諸将を見渡した。
「趙儼」
「はっ」
鄭軍副将を務める漢が一歩進み出る。
「本隊六万を率い新鄭へ向かえ。韓当らを弔い城を立て直すのだ」
「承知いたしました」
孫堅はさらに言葉を続ける。
「皆もこれに従え」
諸将が一斉に拱手する。
しかし、周瑜だけは孫堅を見つめていた。
「殿はどちらへ」
孫堅は西の空を見た。
その先には洛陽。
漢王朝二百年の都があった。
「この戦の元を断ちに行く」
静かな声であった。
「周瑜、程咨」
「はっ!」
「ここに」
若き参謀と敢死隊隊長が前へ出る。
「敢死隊三千及び本隊のうち一万を率い、共に洛陽へ向かうぞ」
周瑜と程咨は力強く頷いた。
『命に代えてもお供いたします』
軍は二つに分かれ、一方は新鄭へ、一方は洛陽へと軍を進めるのだった。
---
洛陽
屋敷の中には重苦しい空気が流れていた。
先頃、新鄭より帰還した楊修が扉を叩く。
「父上!」
扉が開かれる。
奥には楊彪が静かに座していた。
楊修は新鄭、滎陽での戦いについて父に報告した。
馬騰討死。
皇軍壊滅。
楊彪は目を閉じる。
「……敗れたか」
声に驚きはなかった。
むしろ、それが起こることを予め知っていたかのような響きであった。
楊修は拳を握る。
「父上!まだ策はございます!洛陽にはなお兵がおります!」
楊彪は静かに首を振る。
「もうよい」
「ですが!」
「楊修」
その一言で楊修は口を閉ざした。
父の目は穏やかであった。
楊彪はゆっくり立ち上がる。
窓の外には冬の洛陽。
天下の中心として栄えし都。
幾人もの忠臣が命を懸けて守ろうとした都である。
「楊修」
「はい」
「お前は父が何を望んでいたか分かるか」
楊修は少し考えた。
「孫堅や劉備ではなく、我ら楊氏が天下を……」
「違う」
楊彪は静かに言った。
「わしが望んだのは、ひとえに漢が続くことだけだ」
楊修は息を呑む。
「一人の英雄が天下を握れば、その者が倒れた時、国もまた倒れる」
楊彪は机の上に置かれた地図へ目を落とした。
「ゆえにわしは均衡を望んだ」
指がゆっくり地図をなぞる。
「孫堅、劉備、劉和。三者が互いに牽制し合い、誰も天下を独占できぬ形こそ、漢が続く道だと思っていた」
静かな独白であった。
「孫堅は忠臣である」
楊修は驚く。
父がその名を認めるとは思わなかった。
「だが忠臣であるがゆえに恐ろしい」
楊彪は続ける。
「天下が一つの力で集約されれば、やがて漢はその大樹の影に隠れてしまう」
楊彪は一通の文を取り出した。
そこにはすでに玉璽の印まで押されている。
「これは……」
楊修が目を見開く。
「勅書だ」
楊彪は静かに答えた。
「曹操を楚公に封ずるためのな」
楊修は息を呑んだ。
「しかし父上!曹操は一度は朝敵として陛下に弓引いた身!」
「だからこそだ」
楊彪は静かに微笑む。
「曹操ほど孫堅と拮抗できる者はおらぬ」
楊彪は勅書を楊修に手渡す。
「これを持ち、益州へ向かえ」
楊修は震える手で勅書を受け取る。
「父上……」
「これがわしの最後の策だ。漢という鼎を支える最後の柱の側でこれを支えよ」
楊修は深く頭を下げた。
「……必ずや」
その目には涙が浮かんでいた。
---
楊修が去った後、白雪が舞う中、楊彪は一人、宗廟へ向かった。
そこには歴代皇帝の位牌が並んでいた。
静かに香を焚く。
「臣、楊彪」
ゆっくり跪く。
「力及ばず」
長い沈黙。
「されど、最後まで漢に尽くす」
外から微かに鐘の音が聞こえる。
その音を聞きながら楊彪は脇に置いていた短剣を手に取った。
「願わくば」
空を仰ぐ。
「この国が、末永く続かんことを」
短剣が胸へ吸い込まれる。
鮮血が白い衣を染め、楊彪はゆっくりと崩れ落ちる。
その表情は苦悶ではなく、どこか安堵にも似た穏やかなものであった。
漢に仕え、漢のために策を巡らせ、最後まで漢の行く末だけを案じ続けた、一人の士の最期であった。




