【第百五十八話】皇軍としての誇り
216年晩冬 司隷河南尹・滎陽
黄河を渡り終えた七万の鄭軍は休む間もなく西へと進んでいた。
黎陽に残った陳到、陳武。
二人が命と引き換えに繋いだ道を孫堅は決して無駄にはできなかった。
「……急げ」
孫堅の一声で軍は昼夜を分かたず進み続ける。
やがて滎陽へ差しかかったその時――。
「前方に軍勢!」
物見が駆け込んだ。
「数、およそ三万!」
「旗印は……馬!」
周瑜が静かに目を細める。
「馬騰軍です」
新鄭を攻め洛陽へ帰還する皇軍。
そして新鄭救援へ急ぐ鄭軍。
二つの軍勢は滎陽の平野でついに相まみえた。
冬の凍てついた風が吹き抜ける。
両軍は互いに陣を敷き静かに対峙していた。
その時、一騎の武将が孫堅軍から進み出る。
馬岱であった。
彼は馬を進め皇軍の先頭にいる叔父に向かい静かに拱手した。
「叔父上」
馬騰はその姿を見るなり目を伏せた。
「……馬岱か」
「一つ、お聞かせください」
馬岱の声は震えていた。
「なぜ、このようなことをなされたのです」
馬騰は答えない。
馬岱は続ける。
「孫堅様は陛下の勅命を受け、河北を乱す袁尚討伐のため北伐へ向かわれました。漢を守るための戦でございます」
馬騰はただじっと地面を見つめていた。
「されど、叔父上は孫堅様の留守を襲い、新鄭を攻められた。それが本当に叔父上の正義なのですか!」
馬騰は拳を握る。
馬岱はさらに言葉を重ねた。
「叔父上は幼き頃より私に教えてくださいました。武とは民を守るためにあり、民の安寧のために皇帝陛下に尽くすことこそが大義である、と。今、最も陛下を支えているのは誰ですか!」
両軍合わせて十万の兵はただ固唾を飲んで見守っていた。
「董卓が洛陽を焼き、陛下が長安より落ちられた時。誰よりも早く駆けつけたのは孫堅様ではありませんでしたか!」
その言葉は馬騰の胸を深く抉った。
しばらく沈黙が続いた。
やがて馬騰は静かに口を開く。
「……その通りだ」
周囲の将たちが息を呑む。
「孫堅殿は漢の忠臣。その功績は誰にも否定できぬ。そして此度の北伐も陛下の勅命によるもの」
馬騰は苦しげに目を閉じる。
蔡文姫と周胤。
新鄭で交わした言葉が脳裏をよぎる。
あの九歳の少年に突きつけられた正義。
馬騰は既にその正しさを理解していた。
「……わしは」
小さく呟く。
「過ちを……犯したのやもしれぬ」
馬岱の表情が僅かに和らぐ。
しかし――。
馬騰はゆっくり槍を構えた。
「だが」
その声は再び武人のものとなる。
「私は皇軍の将。陛下より下された勅命を受け、この軍を率いている。たとえ我が心が揺らごうとも、勅命を受けた以上、戦わぬことは皇軍の誇りを捨てることに等しい」
馬岱は驚く。
「叔父上!」
馬騰は首を横に振った。
「私が受けし勅命のもと、皇軍としてこの戦を避けることはできぬ。」
そして馬を返し、高らかに叫んだ。
「全軍!鄭公・孫堅討伐を開始する!」
号令が天地を震わせる。
西涼の騎兵たちが一斉に槍を掲げた。
馬鉄。
馬休。
幾多の戦場を駆け抜けた精鋭たちである。
「涼州の勇士たちよ!皇軍の威を示せ!」
馬騰は槍を天へ掲げた。
「突撃!!」
轟音とともに三万の騎兵が一斉に駆け出した。
大地が震え、滎陽の冬空に土煙が舞う。
その突撃を行うは天下に並ぶものなき涼州騎兵。
西方最強と謳われた鉄騎であった。
その奔流は巨大な槍となって孫堅軍七万へ襲いかかる。
一方、孫堅は静かに槍を握り締めた。
「……馬騰殿」
かつて共に漢を救った戦友。
その槍を受ける時が来ようとは。
滎陽の地で漢を支えた二人の英雄は、互いの正義を掲げ激突しようとしていた。




