【第百五十七話】忠義の証
216年晩冬 冀州魏郡・黎陽
夜明け。
黎陽の大地から鄭軍の本隊が南へと去っていく。
その最後尾、黄河へと続く街道に一万の兵が静かに陣を敷いていた。
中央には『陳』の旗がはためいていた。
二人の将は並んで南を見つめていた。
「殿も今頃は黄河を渡っておられるでしょうな」
陳到が静かに呟く。
陳武は槍を肩に担ぎ豪快に笑った。
「ならばそろそろ我々の出番ですかな」
「一時でも長く袁尚をここへ縛りつけてやりましょう」
二人は互いに肩を叩き、それぞれの軍へ戻っていった。
---
袁尚本陣。
「孫堅が退いた?」
報を聞いた袁尚は立ち上がる。
「逃がすな!やつを討ち取れば亡き父の無念を晴らし、俺が天下に名を上げることが出来るぞ!」
張郃が一歩進み、静かに進言した。
「殿。敵は必ず備えを置いておりましょう。軽々しく進めば――」
「構わぬ!」
袁尚は遮る。
「孫堅を討つ好機を逃すものか!」
張郃は目を伏せた。
その横で牽招も小さく息を吐く。
二人は命に従うしかなかった。
「全軍、進軍!」
河北十万の軍勢が一斉に南へ動き出した。
---
街道の狭隘地。
陳到は静かに敵軍を見つめていた。
「今だ」
袁尚軍先鋒の将・馬延が意気揚々と街道を進軍してきた、次の瞬間。
山腹から無数の矢が降り注いだ。
「伏兵だ!」
袁尚軍はたちまち混乱に陥る。
さらに別方向から角笛が鳴る。
「右だ!」
兵が向き直った瞬間、今度は左から槍隊が突撃してきた。
「敵は何人いるのだ!」
「分かりませぬ!」
馬延が叫ぶが混乱している兵からは正確な情報は返ってこなかった。
実際には数百の兵。
しかし地形を巧みに利用した陳到の用兵は、数倍の兵が潜んでいるかのような錯覚を敵へ与えていた。
後ろから進んでいた張郃は思わず唸る。
「見事だ……」
敵を倒すためではなく、時間を奪うための戦。
その極致がそこにあった。
---
一方。
別の谷間では陳武が暴れ回っていた。
「ははは!まだまだ来い!」
槍が唸るたびに馬上の敵兵が宙を舞い、敵将が倒れる。
豪胆という言葉を具現化したような戦い。
「敵は寡兵だ!敵将を包んで討て!」
張顗が叫び数十騎が包囲する。
しかし陳武は笑った。
「その程度か!」
槍が一閃するたび、一人、また一人と敵兵が倒れていく。
「化け物だ……」
袁尚軍の兵たちは恐怖した。
陳武はまるで千軍万馬に等しい働きを見せていた。
---
数日の時が過ぎる。
陳到軍の兵は半数以下となり陳武の鎧も紅に染まっていた。
陳到は静かに笑った。
「陳武殿」
「いかがした?」
「随分と派手に暴れましたな」
陳武は肩をすくめた。
「最期くらいはな」
二人は背中合わせになる。
目の前にはなお尽きぬ敵軍。
「そろそろ頃合いでしょうか」
陳到が南の空を見上げる。
孫堅軍本隊は十分に距離を取ったであろう。
役目は果たした。
だが、すでに自軍は退却できる機を失っていた。
陳武もまた頷く。
「ああ。我らの武、袁尚軍のやつらに見せつけてくれよう」
二人は最後の突撃を敢行した。
---
夕暮れ。
袁尚軍はついに二人を討ち取った。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
追撃軍は大きく損耗し隊列は乱れ、追撃の時を逸していた。
張郃は戦場を見渡す。
「これ以上の追撃は危険です」
牽招も頷く。
「孫堅軍本隊は既に黄河を渡っておりましょう」
袁尚は拳を握り締めた。
目前で最大の敵を逃した。
「……全軍、鄴へ帰還するぞ」
悔しさを滲ませながら、袁尚軍は兵を返した。
黎陽の戦いは終わった。
静寂が戻った戦場、無数の亡骸の中、二人の将が並んで横たわっていた。
陳到。
陳武。
互いに背を預けるように倒れ、その表情はどこか穏やかだった。
己の役目を果たし終えたことに満足しているかのように。
吹き抜ける北風が二人の旗を静かに揺らす。
退却する袁尚軍の最後尾で張郃は小さく呟く。
「これぞ、忠義の姿……」
黎陽の地でその日二人の名将は散った。
しかし、その忠節は生き延びた孫堅軍の将兵一人一人の胸に深く刻まれることとなるのであった。




