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【第百五十六話】敢死の将

216年晩冬 冀州魏郡・黎陽


黄河を望む地。

黎陽には二つの大軍が対峙していた。

北には趙公を名乗る袁尚。

南には鄭公孫堅。

河北の命運を決する戦いは、今まさに始まろうとしていた。

しかし――。

その戦場の裏側で漢(かん)を揺るがす策謀が動いていた。


夜。

孫堅陣営へ一人の男が連行された。

「この者、夜間こそこそと我が陣中を抜けようとしておりましたので捕えて参りました。洛陽へ戻る途中であったと申しております」

兵に連れられてきたのは耿紀であった。

朝廷に仕える官であり、先日袁尚の元へ現れた勅使であった。


孫堅はその顔を見て、

「耿紀殿」

静かな声。

しかしその目には鋭い光が宿っていた。

「あなたは何用で袁尚の元へ向かったのか?」

耿紀は沈黙する。

だが、周囲の将たちの視線に耐えられず、やがて口を開いた。

「……勅書を届けに……」

「何と!その内容は!」

すぐには答えなかったが、周囲の重圧に耐えきれずポツポツと話し始めた。


袁尚を趙公に任命する。

そして――。

馬騰へで新鄭侵攻を命じる計画があったと……

その言葉を聞いた瞬間、孫堅の表情が変わった。

「馬騰殿が……」

拳を握る。

かつて共に漢を救った漢(おとこ)。

その漢(おとこ)が自分の留守を狙い新鄭を攻めようとしている。


「……許せぬ」

怒り。

しかし、それ以上に悲しみだった。

「新鄭へ急ぎ戻らねば」

孫堅は立ち上がる。

周瑜が頷く。

「背後を失えば袁尚とも戦えませぬ」


そんな中、幕舎の中で一人の若武者が立ち尽くしていた。

馬岱、馬騰の甥。

叔父が行ったことを聞いた彼は俯いていた。

「……叔父上は」

呟く。

「漢(かん)を守るため戦ってきた方だった」

その姿を幼い頃から見てきた。

だからこそ、今の行動が理解できなかった。

そこへ法正が歩み寄る。

「馬岱殿」

「……法正殿」

「考えていることは分かります」

法正は静かに言う。

「ですが、今は迷っている時間はありません。急ぎ馬騰殿の元へ向かい、その暴挙を止めるが貴殿の役ではないでしょうか」

馬岱はその言葉に頷き、叔父を止める決意を固めるのだった。


次なる戦に沸き立つ陣内で一人冷静に声を上げる者がいた。

「殿、急ぎ決めるべき問題があります」

司馬懿であった。

「司馬懿、いかなることだ?」

「撤退するには、袁尚からの追撃は必至。殿(しんがり)をどなたに任せるかについてです」

一瞬にして陣内が静まり返る。

「殿(しんがり)か……」

「その役を務める者は……おそらく戻れません」

その言葉が陣中に響いた。

将たちは互いを見る。

そして――。

「俺がやる!」

甘寧が声を上げる。

「この程度の戦場、俺が食い止めてみせる!」

「ならば俺も!」

「いや、私が!」

次々と声が上がる。


孫堅軍の将たちは皆、理解していた。

この役目がどれほど重いか。

だからこそ、誰かがやらねばならないことを。


その時、

「お待ちください」

一つの声が全てを止めた。

前へ出た漢(おとこ)は陳到。

派手な武功で知られる漢(おとこ)ではない。

しかし、誰よりも過酷な任務を果たしてきた漢(おとこ)。


「陳到よ」

孫堅が見る。

陳到は静かに頭を下げる。

「この役目、私にお任せください。私はかつて敢死隊を率いておりました。今は後(のち)の者へ託しましたが……」

槍を見る。

「死地へ入り、味方の道を作る役。それこそ、私が最もよく知る戦いにございます」


甘寧が前へ出る。

「陳到!俺にやらせろ!孫堅様のためなら俺は――」

陳到は苦笑する。

「甘寧殿」

「何だ」

「あなたには、このあとの戦がございます。それに……」

少し笑う。

「甘寧殿が殿(しんがり)では、敵を押し留めるどころか、反撃して手柄を独り占めにしてしまいましょう。それでは孫堅様の面目がたちませぬ」

一瞬の静寂、その後陣中に笑いが起きる。

甘寧は口を尖らせる。

「……確かに俺は守りの戦は不得意だ」

陳到は頷く。

「だからこそ、新鄭を救う戦を頼みます」


孫堅は目を閉じる。

そして、

「陳到」

「はっ」

「この場を任せる」

陳到は微笑む。

「御意」



---


退却準備の中。

陳到は一人の漢(おとこ)に気づいた。

「……陳武殿」

孫堅軍古参の将。

陳到は眉をひそめる。

「なぜ残っているのですか」

陳武は笑う。

「決まっているだろう。貴殿と共に逝(い)くためだ」

「なりませぬ」

陳到は首を振る。

「これは私の役目です。陳武殿は殿と共に退いてください」

しかし陳武は動かない。

「同じ陳の姓を持つ者として。最後くらい隣に立たせてくれ」

陳到は黙る。

「俺たちは長く戦場を共にした」

陳武は槍を握る。

「ならば最後も共に戦う。それが戦友(とも)というものだろう」

しばらくの沈黙。

そして陳到は小さく笑った。

「……仕方ありませんな。殿が聞けば叱られますぞ」

陳武も笑う。

「その時は貴殿も共に謝ってくれ」

二人の将は肩を叩き合った。



---


翌朝。

孫堅軍は七万の兵と共に新鄭に向け出発した。

その後方には陳到と陳武。

そして、死地へ向かう一万の兵たち。


遠くから袁尚軍の軍鼓が響く。

河北の大地に敢死の将たちの戦いが始まろうとしていた。

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