【第百五十五話】正義とは
216年晩冬 司隷河南尹・新鄭
夜明けを迎えた新鄭。
孫堅が築き上げた都の城壁には、今や皇軍の旗が掲げられていた。
しかし、宮城内にはまだ戦いの意志を失わぬ者たちが残っていた。
宮門前に呂範は兵を整列させていた。
残された兵は四千。
決して多くはないがこの場所だけは譲ることができなかった。
「陳羣殿」
呂範が振り返る。
そこには政務を司る老臣がいた。
その表情には疲労が浮かんでいた。
「馬騰軍が迫っており、長くは持たぬやもしれませぬ。万一の時のために殿のご家族方に脱出の手筈を」
「分かっている」
陳羣は静かに答えた。
「しかし、ここを失えば鄭の威信は地に落ちる。何としても時間を稼いでもらいたい」
呂範は槍を握る。
「心得ておりまする。韓当殿の奮戦に答えるためにも孫堅様がお戻りになるまで。なんとか粘ってみせまする」
その時、宮城の庁舎から二人の姿が現れた。
一人は女性。
もう一人は幼い少年。
周瑜の妻・蔡文姫とその子であった。
「蔡文姫殿!」
呂範が驚く。
「ここは危険ですぞ。陳羣殿の指示のもと脱出の準備を!」
蔡文姫は首を振った。
「分かっています。ですが我が夫が出征の身で己のみが安穏とはしておれませぬ。馬騰殿とは知らぬ仲ではありませぬ。かの方にその真意を問いたく存じます」
その視線の先には馬騰が進軍してくる宮門があった。
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馬騰は宮門前へ到着した。
固く閉ざされた門を見て馬騰は陰鬱とした気分になったが、己の使命を果たすため攻撃準備を命じた。
その時、宮門が静かに開くのが見えた。
馬騰は驚いたが、油断なく兵に矢を構えさせると、開いた門から二人の人影が現れた。
その内の一人は女性であり、見覚えのある人物であった。
馬騰は表情を緩ませると兵に矢を下ろさせ女性に話しかけた。
「……蔡文姫殿」
「お久しゅうございます、馬騰様」
その声にかつての日々が蘇る。
25年の年月を遡る、長安がまだ董卓による統治を受け、武による変革が求められていた時代。
その中で馬騰は蔡文姫の父・蔡邕と出会った。
董卓の暴威にも屈することなく漢の正道を貫く漢であり、若き馬騰は蔡邕の志に感銘を受けた。
その時、馬騰にとって蔡文姫は守るべき漢の民の一人であり、守るべき漢の象徴であった。
それが今、敵として向かい合っている。
馬騰は馬から降りた。
「蔡文姫殿。私は皇帝陛下の勅命を受けこの地へ参りました。孫堅殿は漢の名を利用し、私兵を増やし、天下を乱している、と。故に討伐の命を受けたのです」
馬騰は頭を下げる。
「抵抗せず、降伏されよ。これ以上、漢臣同士で血を流す必要はございませぬ」
蔡文姫は悲しげに馬騰を見る。
「……このような形で、再びお会いするとは思いませんでした」
その言葉に馬騰の胸が痛む。
「蔡文姫殿」
「私は……」
言葉を続けようとした時、横にいた少年が前へ出た。
「母上、私が話してもよろしいでしょうか?」
蔡文姫は静かに頷いた。
「周胤……」
齢九歳。
しかし、その双眸には父・周瑜を思わせる聡明な光を宿していた。
「馬騰将軍。一つお訊きしたいことがあります」
少年は問う。
馬騰は堂々とした物言いに祖父・蔡邕の面影を見て、懐かしい思いに微笑んだ。
「申してみよ」
「将軍は孫堅様が逆臣であると申されました。しかし、今、孫堅様は陛下の勅命を受け、北伐軍を率いておられます。つまり、将軍が討とうとしている相手もまた、陛下の命を受けて動いているのではありませんか?」
馬騰は言葉を失う。
周胤は続ける。
「そして……。将軍は董卓の乱の時代を知っておられます。陛下が長安から逃れられた時、誰より早く陛下を救うために動いたのは誰でしたか?」
沈黙。
「孫堅様です」
馬騰の顔が強張る。
「将軍はその時、陛下をお救いするために駆けつけられましたか?」
「……」
答えられなかった。
「もし」
周胤の声が響く。
「本当に孫堅様が逆臣であり討伐する正義が将軍にあるのならば、なぜ孫堅様が不在の時を狙うのですか?なぜ正々堂々、孫堅様が新鄭にいる時に来なかったのですか?」
幼子の言葉。
その一つ一つは武人の心を貫いた。
馬騰は拳を握る。
自分は漢を守護るために来た。
そう信じていた。
だが、今、自分がしていることは何だ。
主が不在の城を攻め、かつて共に戦った者たちを討ち、戦友が築いた地を奪おうとしている。
「……」
馬騰はゆっくり頭を下げた。
「蔡文姫殿。そして、周胤殿。御二方の言は真にもっともなもの。我が不明恥じ入るばかりです。申し訳ない」
呂範が驚く。
「馬騰殿……」
「私は陛下のためと思いこの軍を率いてきた。しかし、今……己の行いを見直さねばならぬことを教えていただいた」
馬騰は静かに続ける。
「孫堅殿が本当に道を違えたのなら、このような形ではなく正面から問うべきであった……」
馬騰は踵を返す。
「全軍、撤退する」
馬鉄たちは戸惑う。
「しかし、父上!楊彪殿には何と!」
しかし、馬騰の決意は揺るがなかった。
「黙れ馬鉄!孫堅殿に非があるか。改めて朝議にて検討する。それでも必要であれば次は孫堅殿に直接その真意を問いに参る」
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こうして馬騰軍は新鄭から退いた。
城壁の上から呂範は遠ざかる西涼の軍勢を見つめる。
「正義とは……」
小さく呟く。
その答えは城壁の下で微笑み合う蔡文姫と周胤、二人の親子が表したものだった。




