【第百五十三話】忠臣の暴走
216年晩冬 冀州・鄴
雪が降り始めた河北の大地。
袁尚は城壁の上に立ち南を見つめていた。
その視線の先には中原へ続く道がある。
「孫堅……」
袁尚は呟く。
今や漢の最大勢力となった漢。
その存在はかつて父・袁紹が目指した天下への道を塞ぐ大きな壁となっていた。
そこへ急報が届く。
「申し上げます!」
兵が駆け込む。
「孫堅軍、北上を開始!総勢……八万とのこと!」
袁尚の目が鋭くなる。
八万という大軍はただの討伐軍ではない。
これは河北そのものを飲み込むための軍勢だ。
「ついに来たか……」
袁尚は拳を握る。
父を敗り、袁家の覇業を退けた漢の猛虎。
ならば、その猛虎を討つことで父を越える。
「張郃、牽招を呼び戻せ!幽州攻略は一旦中断し全軍を集結させる」
高柔が驚く。
「しかし殿、幽州はあと一歩で……」
袁尚は遮った。
「幽州などいつでも獲れる。その前に河北を守らねば意味がないではないか!」
その言葉は正しかった。
だが、その目に映るのは河北の民の安寧ではなく、己の天下への野心だった。
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二週間後。
幽州より張郃、牽招が帰還する。
幽州で勝利を重ねた二人だがその表情に喜びはなかった。
張郃は袁尚を見る。
「孫堅との決戦ですか」
「ああ」
袁尚は頷く。
「ここで孫堅を破れば天下は再び我らを中心に動く」
その言葉に張郃は沈黙した。
かつて袁紹も同じように天下を見ていた。
だが、その時には沮授がおり、田豊がいた。
袁紹を諫め、正しき道へといざなう者達がいた。
それでも覇業は叶わなかった。
今は――。
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黎陽に向けて出陣準備をする袁尚の元に一人の男が現れた。
「皇帝陛下よりの勅使である!」
兵たちがざわめく。
袁尚の前へ通された男。
名を耿紀といい朝廷に仕える官。
そして、楊彪より密命を受けた者だった。
「趙公・袁尚殿」
耿紀は頭を下げる。
その呼び名に袁尚の目が止まった。
「今、何と言った?」
「趙公にございます」
耿紀は懐より文を取り出す。
「これは陛下よりの勅命にございます。天下の大乱を鎮めるため、劉和殿の跡を袁尚殿に託し、趙公に封じるとのことにございます」
室内が静まり返る。
さらに続く。
「そして鄭公・孫堅。その者は漢室の名を借り、私兵を拡大する逆臣である。趙公にはその討伐を命じる」
袁尚は文を受け取った。
その顔には驚きではなく歓喜が浮かんでいた。
「……そうか今、袁家に、いやこの俺に天の時が訪れたか」
その時一人の若者が前へ出た。
盧毓、盧植の子。
父より漢の道を学んだ漢であった。
「お待ちください」
袁尚が見る。
「盧毓か」
「僭越ながら、この勅……確認する必要がございます」
空気が変わる。
「何?」
盧毓は文を見る。
「父・盧植は常に申しておりました。天子の命は軽々しく扱ってはならぬ。そして真の勅命ならば必ず天下に示される形で発せられると」
盧毓は耿紀を見る。
「この勅は陛下の御心によるものなのか?それとも――」
一瞬、言葉を止める。
「誰かの意によるものなのか!」
張郃の表情が変わる。
牽招も黙る。
だが袁尚には届かなかった。
「盧毓」
低い声。
「貴様は父上の時代を知る者か」
「……はい」
「ならば分かるはずだ」
袁尚は立ち上がる。
「父上は天下を望んだ。袁家は天下を担う家だった」
手にした勅書を掲げる。
「これは天命だ」
盧毓は悲しげに見る。
「殿……。これは父君が望まれた道とは――」
「黙れ」
袁尚は遮る。
「父上の名を借りて私を止めるな」
そして堂々と宣言する。
「今日より私は趙公である!皇帝陛下の命を受け、逆臣孫堅を討つ!」
兵たちが歓声を上げる。
「趙公万歳!」
「袁尚様万歳!」
その声を聞きながら張郃は目を伏せた。
分かっていた。
これは故袁紹が夢見た天下への道ではない。
しかしもう止められる者はいなかった。
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翌朝
趙公・袁尚。
その旗を掲げた十万の軍勢が南へ進む。
向かう先は黎陽。
その先には孫堅が待っていた。
河北の野望みる主と漢を支え続けた勇将。
二つの時代の意志が黄河のほとりで激突しようとしていた。




