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【第百五十一話】忠臣達の疑念

216年仲夏 洛陽


激しい雷雨の中、帝都洛陽に一つの報が届く。

「……趙公、劉和様が崩御されたとのことです」

報告を聞いた老臣はしばらく言葉を失った。


楊彪、弘農楊氏の当主。

何代にも渡り漢室を支え続けてきた名門の漢(おとこ)。

「そうか……」

静かな声。

しかし、その顔には深い疲労が浮かんでいた。


劉和は父・劉虞とは異なり英雄の器を持つ男ではなかった。

だが、その器とは別に重要な役を彼は担っていた。

漢室の血を引く宗族としての役、袁家という巨大な勢力の重しとしての役、鼎を支える三柱の一つとしての役。

「……漢(かん)を支える柱が消えたか」

楊彪は窓の外を見る。


黄巾の乱、董卓の暴政、その後の群雄割拠……。

幾度も漢は滅びかけた。

それでも今日まで続いたのは、ただ一人の英雄の力ではない。

多くの者がそれぞれの場所で支え続けたからだった。

一本の柱では鼎は支えられない。


しかし今、その柱が一本消えた。

そして残る最大の柱。

それは――。

「孫堅……か」

楊彪は小さく呟いた。


江東の虎と呼ばれた漢(おとこ)。

董卓打倒に立ち上がり、洛陽を取り戻し、献帝を守り続けた漢(かん)の忠臣。

今や司隷、予州、兗州を支配し新鄭を中心に巨大な政権を築いている。

その治世は安定していた。

法は整えられ、民は戻り、兵は精強。

誰もが認める。

孫堅なくして今の漢は存在しない、と。

楊彪もそう認識していた。


しかし、楊彪の胸に小さな不安が生まれていた。

「もし……、もし劉和殿まで失われた今、漢を支える孫堅が異心を抱いたならば……」

それは楊彪が漢(かん)の忠臣ゆえの恐れだった。


かつての王莽も最初から天下を奪おうとしていたわけではない。

漢を救う名臣として現れたが、やがて権力を握り最後には帝位を奪った。


「人の心は変わる」

楊彪は眉間の皺を押さえる。

今の孫堅ならば必ずしもそうなるとは思わない。

だが……。

歴史は何度も同じ過ちを繰り返してきた。

力を持つ者が永遠に同じ心でいる保証などない。


楊彪の疑念は消えることなく、暗く深い澱(よど)みとして溜まっていくのであった。



---


216年初冬 洛陽宮中


献帝の前に一人の漢(おとこ)が立っていた。

孫堅、齢六十に近づきながらも未だ衰えぬ巨躯。

その姿はかつて董卓軍を震わせた猛虎そのものであった。


「陛下」

孫堅は頭を下げる。

「河北に異変がございます。趙公劉和殿亡き後、袁尚が幽州へ兵を向けました。これは河北の秩序を乱し、天下の均衡を崩すものにございます」


献帝は沈痛な表情で聞く。

劉和は己と同じ漢室の血を引く者。

その死は帝にとっても大きな痛みだった。


孫堅は続ける。

「臣に討伐の許可をお与えください。袁尚を征し、再び河北に平穏を取り戻します」


献帝はすぐには答えなかった。

だが、横にいた楊彪が口を開いた。

「陛下、北伐の許可を与(あた)うべきかと存じます」


その言葉を聞き孫堅の目が僅かに動いた。

楊彪は慎重にして老練であり、常に複数の可能性を考える漢(おとこ)。

常ならば、

「今は時期ではない」

「劉備等、諸侯との調整が必要」

そう言うはずであった。


しかし、此度は違った。

「鄭公の出兵こそ、河北を救う唯一の道にございます」

あまりにも早い賛同だった。


献帝は楊彪の言を聞き頷く。

「鄭公、朕のために河北を靖んじてくれ。北伐を命じる」

孫堅は深く頭を下げた。

「御意」


事の成り行きがあまりにも円滑であったことに誰も疑問を抱かなかった。

ただ一人、孫堅だけが楊彪の横顔を見ていた。


(何故(なぜ)だ)

孫堅は心の中で思う。

(楊彪殿がこれほど簡単に軍事行動を認めるとは……。あの方ならもっと慎重に状況を見るはず)


長年、共に漢を支えた老臣。

その表情にはいつもの忠臣としての憂いとは違う何かがあった。


孫堅は静かに目を細める。

「……楊彪殿」

胸の内で呟く。

(あなたは何を考えている……)


その夜、満月が洛陽を静かに照らしていた。

しかし、西より暗雲がその光を閉ざそうとしていた。

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