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【第百四十九話】幽州侵攻

216年初冬 冀州・鄴


夜明け前の城門に低い鐘の音が響いた。

それは出陣の合図だった。

かつて袁紹が天下を望み、数十万の兵を集めた河北の都。

その城から今、一つの軍勢が北へ向かって進み始める。


目的地は幽州。

かつて劉虞が治め、今は劉和の遺した秩序が残る北方の地。

その地へ向かう軍の旗には、“袁”の文字が掲げられていた。


袁尚は城壁の上から軍列を見下ろしていた。

先頭に立つのは張郃。

その後ろには冀州の精鋭強弩兵を含む二万。

袁紹時代から河北軍の象徴だった兵たちである。

規律正しく並ぶ兵。

その姿はかつて官渡へ向かった袁紹軍を思わせた。


そしてもう一つ。

北方の風を纏う騎兵隊、烏桓突騎一万。

率いるは牽招。

本来ならば漢(かん)の北を守る将。

しかし今、彼は秩序の守護者ではなく侵略者としてこの軍列にいた。


張郃は隣を見る。

「本当に来るとは思わなかった」

牽招は前を見たまま答える。

「私は袁尚様に従ったのではない」

「では?」

「袁家が内側から崩れるのを止めるためだ」

張郃は何も言わなかった。

それが自分と同じ思いであることを理解していた。


袁尚軍は表向きの目的として鮮卑討伐を掲げていた。

近年、北方では鮮卑勢力の活動が活発化していた。

そのため袁尚は朝廷にも、

「北辺の安定のため軍を動かす」

と報告していた。


幽州側も当初はその報を疑わなかった。

鮮于輔。

そして田豫。

二人は劉和の北方統治を受け継ぐ者たちである。

彼らにとって袁家は敵ではなかった。

袁紹はかつて幽州を制圧したが、その後は共に北方を守る存在だった。


まさか……。

その袁家が自分たちへ刃を向けるなどと誰も考えていなかった。



---


数週間後。

幽州の斥候が駆け込む。

「報告!袁尚軍が……代郡へ進軍しています!」

鮮于輔の顔色が変わる。

「鮮卑に向かっているのではないのか……?」

「はっ!北へ向かっていた軍の矛先は我らに向いています!」

その瞬間、幽州の空気が変わった。


代郡。

幽州西部の地であり、ここを失えば防衛線が崩れることとなる要の地。

しかし幽州軍の対応は遅れた。

気づいた時には袁尚軍は目と鼻の先まで迫っていた。


代郡にたどり着いた張郃は慎重だった。

無理な攻撃はしない。

まず敵の守備、地形、兵站を確認する。

それはかつて沮授が評価した張郃の戦い方だった。

「囲め」

張郃は命じる。

「幽州の兵は弱くはない。が、我らを敵と思っていなかっただけに後手に回っている」


その読みは正しく、代郡守備兵が戦闘態勢を整える前に、袁尚軍は包囲を完成させた。

そして、次の日から袁尚軍の攻城戦が始まった。


強弩兵の斉射が城壁上の城兵を制圧する。

強弩兵に対応しようと出陣した部隊は牽招の騎兵に蹴散らされた。

代郡守備兵の士気はみるみる低下し、数日の攻防の後、代郡の城門が開いた。


幽州西部、最初の防衛線が崩壊した。



---


代郡を落とした袁尚軍はさらに東へ進む。

次なる目標は上谷郡。

ここを抜けば州の中心である薊県への道が開ける。


しかしここでも張郃は焦らなかった。

「幽州は広い。城一つを落としても終わらぬ」

張郃は兵を整え確実に進軍するのだった。


一方で牽招の烏桓突騎は別の動きを見せた。

正面からぶつからず、山間を抜け敵の側面を突く。

北方の戦場を知り尽くした牽招ならではの戦いだった。

「騎兵は速さが命だ!敵が我らを認識する頃には戦は終わっている程にな」


上谷郡の守備兵は対応できなかった。

張郃の圧力。

牽招の機動。

二つの異なる戦術が組み合わさった時、幽州の守りは次々と崩れていくのだった。



---


幽州の中心、薊県。

その西、上谷郡との間にそびえる要害、居庸関。

ここを抜かれれば、幽州の心臓へ敵が迫ることとなる。


鮮于輔と田豫は関内で軍議を開いた。

「袁尚軍は二万の兵で我らの城に迫ってきている」

田豫は地図を見ながら落ち着いた声で話す。

そんな田豫の態度と対照的に鮮于輔は落ち着かない様子で南の地を指す。

「しかし、別動隊として牽招率いる烏桓突騎が南より薊へ向かっているというぞ」

田豫は落ち着かせるように鮮于輔の肩を叩く。

「この居庸関を抜かれれば薊は大軍の包囲を受け、どちらにしても陥(お)ちることとなろう」

「確かに……。ならば分けるしかないな」

鮮于輔は覚悟を決め田豫を見る。

「ならば私がこの居庸関を死守しよう。田豫、おまえに薊の守備を任せる」

二人は互いを見て静かに頷き合うのだった。



---


張郃、牽招、田豫、鮮于輔。

短き間ではあったが共に北を守護する者として手を取り合った戦友(とも)。

しかし今やそれぞれの守護(まも)るものは異なり、敵として向かい合うこととなった。


田豫は関外を見る。

遠くには袁の旗。

「なぜ……」

小さく呟く。

「なぜ、同じ河北の民同士で戦わねばならぬのか」

しかし答える者はいなかった。


翌日、幽州最後の防衛戦が始まる。

薊県。

居庸関。

二つの地で。

河北の運命を決める戦いが始まろうとしていた。

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