【第百四十八話】混迷する袁家
216年晩秋 冀州・鄴
かつて袁紹が支配した河北の大地。
その上に立つ後継者・袁尚は、己の時代が来たと信じていた。
袁尚の前には河北を代表する将たちが並んでいた。
高幹。
張郃。
牽招。
袁紹の血筋を継ぐ者と袁家を支えてきた将たち。
袁尚の前には地図が広げられており、描かれているのは幽州であった。
「劉和が死に、今、河北に必要なのは新たな柱だ」
袁尚は幽州を指す。
「俺が幽州を取る」
室内の空気が変わる。
「冀州、并州、幽州」
「三州を一つにし再び袁家がその柱となる!」
それはかつて袁紹が手にし、その地をもって天下の覇を争ったのだった。
しかし、その場に集いし漢達の中には気づいている者もいた。
父である袁紹と今の袁尚では違う。
確かに袁紹は天下を望んだ。
だがそれは諸侯を束ねる器量がある上での野心であった。
袁尚はまだ若く、その器量は未知数。
その若さが決断を急がせているのだと。
最初に口を開いたのは高幹だった。
袁紹の甥、袁家の血を引く男。
「賛成いたします」
高幹は頭を下げる。
「劉和殿は漢室の宗親ゆえ、我らは従っておりましたが、元々河北は袁紹様が築いた地。今こそ袁家の威光を取り戻す時です」
その言葉に袁尚の目が輝く。
「そうだ。父上の築いたものを誰かに預けたままにはできぬ」
高幹は頷いた。
彼もまた、袁家の時代が終わったことを認められずにいた。
若き主君と失われた栄光。
その二つが結びついた時、人は過去を取り戻そうとする。
二人が意気軒昂、盛り上がる中、一人沈黙する漢がいた。
牽招。
北辺の民と共に生き異民族との戦線に長らく身をおいていた将である。
袁尚がそんな牽招の様子に気づく。
「牽招、何かあるか」
牽招はゆっくり頭を下げた。
「殿、幽州攻めはお止めください」
室内が凍る。
「理由を申せ」
「幽州は敵ではございません」
牽招は答える。
「幽州の民は袁紹様が公孫瓚を下してより、共に歩んで参りました。今そこへ兵を向ければ、河北の民同士が血を流すことになります」
袁尚の表情が険しくなる。
「つまり……私に父の覇業を諦めろと言うのか」
「違います!」
牽招は即答した。
「河北を守るために申し上げております。天下を争う前に己の国を壊してはなりませぬ」
しかし、今の袁尚には届かなかった。
「もうよい」
袁尚は立ち上がる。
「お前は北の地に居すぎたようだな」
「殿……」
「牽招、貴様の烏桓突騎の指揮権を剥奪する」
ざわめきが起こる。
張郃が目を伏せた。
袁尚は続ける。
「俺の方針に逆らうものはいらん!今、必要なのは迷わず俺に従う者だ」
その時、一人の若者が前へ出た。
沮鵠、沮授の子。
父の死後、袁家に残った最後の理性だった。
「お待ちください」
袁尚は見る。
「沮鵠か」
「父上なら……」
その言葉に、袁尚の目が鋭くなる。
「沮授なら何だ」
沮鵠は震えながらも続けた。
「父や袁紹様ならこのような戦は望まなかったでしょう。河北の民を殺して得る勝利を、望まなかったはずです」
一瞬……
静寂が訪れた。
しかし次の瞬間、袁尚は刀を抜いた。
「父の名を出すな!」
沮鵠は驚く。
「殿……」
「父上は敗れた……」
袁尚の声が震える。
「官渡で敗れた。天下を取れなかった……。だから私が取り戻すのだ。父上の栄光を!」
沮鵠は悲しげに見つめる。
「違います!袁紹様が望んだのは――」
言葉が終わる前に刃が走り、軍議の間に血飛沫が散った。
沮鵠が倒れたが、その場の誰もが動けなかった。
張郃は拳を握る。
目の前にいるのはかつて仕えた袁紹の子。
しかし今、その男が忠臣の命を奪った。
袁尚は震える手で刀を見る。
だが、もう戻れなかった。
---
その夜。
張郃は一人、城壁に立ち袁家の栄光の時代に想いを馳せていた。
袁紹。
沮授。
田豊。
かつて河北を支えた漢たち。
そして今、その漢達はすでに亡く、己がその志を継がねばならない立場になっていた。
「張郃」
声をかけたのは牽招だった。
「私は北辺の守備へ戻る」
「袁尚様を見捨てるつもりか?」
張郃は問う。
牽招は首を振る。
「違う。袁家を守るためだ」
その言葉に張郃は目を閉じた。
分かっていた。
袁尚の道は危うい。
しかし……。
袁尚が倒れれば、河北は完全に崩れる。
曹操。
孫堅。
劉備。
天下の強者たちが虎視眈々と河北の地を狙っている。
河北の内乱が長引けば、故袁紹の築いた全てが消える。
張郃はゆっくり息を吐いた。
「牽招。共に来てくれないか?今、ここで争いが長引けば袁家は終わる」
牽招は沈黙した。
それは袁尚への忠誠ではない。
亡き袁紹への最後の忠義だった。
---
翌日。
袁尚軍は幽州へ向けて密かに動き始める。
袁尚の覇業。
その第一歩が始まった。
そして誰も知らなかった。
この一歩が袁家最後の時代の始まりになることを。




