【第百四十七話】北天柱折
<第十四章> 漢鼎動乱
216年初夏
天下には束の間の静寂が流れていた。
しかし、その均衡を支えていた柱は、一本ずつ朽ち始めていた。
そして河北の柱。
それが折れた。
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鄴城。
かつて袁紹が天下を望み、諸侯を集めた大城。
その城内に低く重い鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
それは趙公劉和の崩御を知らせる鐘だった。
劉和。
漢室の血を引き、父劉虞より受け継いだ幽州・冀州の民をまとめた漢。
天下を奪うほどの野心もなければ、乱世を征服する軍才もなかった。
しかし、彼には別の力があった。
「漢の宗室である」という存在そのものが、河北の人々にとって秩序だった。
袁紹亡き後、河北が完全に崩壊しなかった理由。
それは劉和という柱があったからだった。
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若き袁尚は静かに棺を見つめていた。
かつて父袁紹が統べた河北四州。
その中心にいた漢が今、消えた。
側にいた高幹が呟く。
「……これで、河北を束ねる者はおりませぬ」
袁尚は答えなかった。
ただ、拳を握った。
心の奥底である思いが芽生えていた。
(父上が築いた河北を……)
(なぜ、劉家の者が支配していたのか)
劉和という柱が消えた瞬間、袁尚の中に眠っていた野心が目を覚ました。
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その夜。
袁尚は病床の漢を訪ねた。
沮授。
袁紹の時代から河北を支え続けた知将。
官渡の戦いでは疾風のごとき速さで河内を席巻し、袁紹の敗北の際も最後まで袁家に忠義を尽くした漢。
今や、その命は尽きようとしていた。
「袁尚様……」
沮授は弱々しく目を開いた。
「河北の主となるおつもりですか?」
袁尚は答えられず沈黙していた。
沮授には分かっていた。
劉和の死によって、若い主君の心に何かが生まれたことを。
「袁家は……天下を望める家でございました」
沮授はゆっくり語る。
「しかし、天下を争うことと、天下を統べることは違います」
「……」
「河北を守り、漢の天下を支えることこそ、今の袁家に残された道でございます」
袁尚は目を伏せた。
「父上なら……」
沮授は苦しげに息を吐く。
「袁紹様ならまず民を見たでしょう」
その言葉は袁尚の胸に刺さった。
しかし若き後継者の心には別の声が響いていた。
父は敗れ、その威光を官渡で失った。
孫堅ごとき下賤の者に奪われた。
ならば――
誰かが取り戻さねばならない。
その思いは忠臣の言葉さえ届かぬほど膨らんでいた。
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数日後。
沮授の容態は急変した。
枕元には張郃がいた。
かつて沮授の元でその武勇を奮い、今や袁紹軍の三大将の一人として冀州の軍権を預かる漢であった。
沮授は最後の力を振り絞る。
「張郃……」
「ここに」
「袁家を……頼む」
張郃は頭を下げた。
「承知しました」
沮授は静かに目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは若き日の雄々しき袁紹の姿であった。
天下を目指した主君に仕えし栄光の時期。
そして、官渡の戦いで一変し、今や滅びゆく河北の姿。
「……願わくば……、袁家が、道を違えぬことを」
それが、最期の言葉だった。
河北を支えた最後の柱。
沮授、死去。
鄴城には再び三度鐘が鳴った。
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沮授の葬儀が終わった夜。
袁尚は一人、父の肖像画の前に立っていた。
袁紹。
かつて天下を震わせた男。
四州を支配し、孫堅や劉備を追い詰めた英雄。
しかし、その夢は潰えた。
袁尚は絵を見上げる。
「父上。私は……父上の天下を取り戻します」
そこに迷いはなかった。
劉和亡き河北。
今こそ袁家が立ち河北を再統一する時。
そう感じる袁尚の目は北を向いていた。
幽州。
そこには劉和の元で共に河北の秩序を守っていた漢達がいた。
田豫と鮮于輔。
だが今の袁尚には、それは「敵」にしか見えなかった。
「幽州を取り、河北を一つにする。そして、再び袁家の旗を天下に掲げる」
その言葉を聞く者はいなかった。
しかし、この夜から河北の歴史は変わるのだった。
袁紹が築いた国。
劉和が守った秩序。
その二つを受け継ぐはずだった漢は――
守護者ではなく覇者への道を選んだ。
初冬。
袁尚、幽州へ兵を向ける。
漢の鼎は静かに揺れ始めた。




