↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
148/172

【第百四十七話】北天柱折

<第十四章> 漢鼎動乱


216年初夏


天下には束の間の静寂が流れていた。

しかし、その均衡を支えていた柱は、一本ずつ朽ち始めていた。


そして河北の柱。

それが折れた。



---


鄴城。

かつて袁紹が天下を望み、諸侯を集めた大城。

その城内に低く重い鐘の音が響いた。

一度。

二度。

三度。

それは趙公劉和の崩御を知らせる鐘だった。


劉和。

漢室の血を引き、父劉虞より受け継いだ幽州・冀州の民をまとめた漢(おとこ)。

天下を奪うほどの野心もなければ、乱世を征服する軍才もなかった。


しかし、彼には別の力があった。

「漢の宗室である」という存在そのものが、河北の人々にとって秩序だった。

袁紹亡き後、河北が完全に崩壊しなかった理由。

それは劉和という柱があったからだった。



---


若き袁尚は静かに棺を見つめていた。

かつて父袁紹が統べた河北四州。

その中心にいた漢(おとこ)が今、消えた。


側にいた高幹が呟く。

「……これで、河北を束ねる者はおりませぬ」

袁尚は答えなかった。

ただ、拳を握った。


心の奥底である思いが芽生えていた。

(父上が築いた河北を……)

(なぜ、劉家の者が支配していたのか)

劉和という柱が消えた瞬間、袁尚の中に眠っていた野心が目を覚ました。



---


その夜。

袁尚は病床の漢(おとこ)を訪ねた。


沮授。

袁紹の時代から河北を支え続けた知将。

官渡の戦いでは疾風のごとき速さで河内を席巻し、袁紹の敗北の際も最後まで袁家に忠義を尽くした漢(おとこ)。

今や、その命は尽きようとしていた。


「袁尚様……」

沮授は弱々しく目を開いた。

「河北の主となるおつもりですか?」


袁尚は答えられず沈黙していた。

沮授には分かっていた。

劉和の死によって、若い主君の心に何かが生まれたことを。


「袁家は……天下を望める家でございました」

沮授はゆっくり語る。

「しかし、天下を争うことと、天下を統べることは違います」

「……」

「河北を守り、漢の天下を支えることこそ、今の袁家に残された道でございます」


袁尚は目を伏せた。

「父上なら……」

沮授は苦しげに息を吐く。

「袁紹様ならまず民を見たでしょう」


その言葉は袁尚の胸に刺さった。

しかし若き後継者の心には別の声が響いていた。

父は敗れ、その威光を官渡で失った。

孫堅ごとき下賤(げせん)の者に奪われた。


ならば――

誰かが取り戻さねばならない。

その思いは忠臣の言葉さえ届かぬほど膨らんでいた。



---


数日後。

沮授の容態は急変した。


枕元には張郃がいた。

かつて沮授の元でその武勇を奮い、今や袁紹軍の三大将の一人として冀州の軍権を預かる漢(おとこ)であった。


沮授は最後の力を振り絞る。

「張郃……」

「ここに」

「袁家を……頼む」

張郃は頭を下げた。

「承知しました」


沮授は静かに目を閉じる。

脳裏に浮かぶのは若き日の雄々しき袁紹の姿であった。

天下を目指した主君に仕えし栄光の時期(とき)。

そして、官渡の戦いで一変し、今や滅びゆく河北の姿。

「……願わくば……、袁家が、道を違(たが)えぬことを」

それが、最期の言葉だった。


河北を支えた最後の柱。

沮授、死去。

鄴城には再び三度鐘が鳴った。



---


沮授の葬儀が終わった夜。

袁尚は一人、父の肖像画の前に立っていた。

袁紹。

かつて天下を震わせた男。

四州を支配し、孫堅や劉備を追い詰めた英雄。

しかし、その夢は潰えた。


袁尚は絵を見上げる。

「父上。私は……父上の天下を取り戻します」

そこに迷いはなかった。


劉和亡き河北。

今こそ袁家が立ち河北を再統一する時。

そう感じる袁尚の目は北を向いていた。


幽州。

そこには劉和の元で共に河北の秩序を守っていた漢(おとこ)達がいた。

田豫と鮮于輔。

だが今の袁尚には、それは「敵」にしか見えなかった。

「幽州を取り、河北を一つにする。そして、再び袁家の旗を天下に掲げる」

その言葉を聞く者はいなかった。


しかし、この夜から河北の歴史は変わるのだった。

袁紹が築いた国。

劉和が守った秩序。

その二つを受け継ぐはずだった漢(おとこ)は――

守護者ではなく覇者への道を選んだ。


初冬。

袁尚、幽州へ兵を向ける。

漢の鼎は静かに揺れ始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。