【第百四十五話】三公鼎立
215年初春 洛陽
冬の気配がようやく薄れ、洛陽に柔らかな陽光が差し始めた頃――
三人の公位就任を告げる詔が都の内外に広く知らされた。
人々は期待を抱いていた。
戦乱の気配は遠のき、遠く大秦との往来すら実現した今、この新たな体制こそが「安定」をもたらすのではないか、と。
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予州潁川郡・許昌
まだ朝靄の残る政庁を一人の文士が訪れる。
楊修である。
「孫公……というのは、まだ早かったですかな」
軽く笑みを浮かべながら楊修は礼を取る。
対する孫堅は威を崩さぬまま頷いた。
「勅使として参ったか」
「はい。陛下は公位の“号”について、孫将軍ご自身の意を尊重されるとのこと。そのお考えを私がうかがいに参りました」
静かな風が庭木を揺らす。
楊修は続けた。
「すでに、劉備殿は“斉”を望まれました。東方を鎮めし地に相応しき名。劉和殿もまた“趙”を選ばれました。北方の雄にして、その統治を象徴する名」
一拍置き、視線を孫堅へ向ける。
「では――孫将軍はいかなる号をお望みか」
孫堅はしばし沈黙した。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……鄭」
楊修の眉がわずかに動いた。
「韓ではなく鄭、にございますか?」
その声音には明確な疑問が含まれていた。
「戦国七雄にも数えられぬ小国。名望において、斉や趙に劣ることは否めませぬ」
率直な物言いであった。
だが孫堅は動じない。
「承知の上だ」
静かな声で言う。
「理由をお聞きしても?」
楊修が問うと孫堅は立ち上がる。
「第一に……我が根は、この地にある」
足元を見やる。
「かつて鄭のあったこの地に、私は立ち、兵を挙げた。ここを離れて私の名は成り立たぬ」
楊修は黙して聞く。
「第二に……」
孫堅の視線が遠くへ向いた。
「かつての戦友との約束がある」
その言葉にわずかな重みが宿る。
「朱儁殿と語ったことがある。乱世にあって、誰が“漢”を支えるのか、と」
風が止む。
「周の世において、鄭は大国にあらずとも王室を支え続けた。我もまた、そう在りたい」
楊修の表情が変わる。
「……なるほど」
孫堅はさらに続けた。
「第三に……“鄭”とは“親しむ”の意を持つ」
ゆっくりと、言葉を噛みしめるように。
「民に親しみ、民を安んずる。それこそが、我が望み」
沈黙。
やがて楊修は深く一礼した。
「承りました。その志……確かに陛下へお伝えいたします」
その眼差しには、先ほどまでの軽さはなかった。
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宮中
楊修の報告を受けた献帝はしばし言葉を失っていた。
「……鄭、か」
小さく呟く。
「己が栄華や名声を求むるものではなく、国と民を思う号か……」
その目がわずかににじむ。
「孫堅、真に忠なる者よ」
かつて幾度となく裏切りと野心を見てきた帝にとって、その在り方は、あまりにも崇高なものであった。
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そして吉日
洛陽の大殿にて、公位授与の儀が執り行われた。
百官が列し、厳かな楽の音が響く中、三人が進み出る。
まず――劉備。
「東方を鎮め、南方を護る功をもって、斉公に封ず」
続いて――劉和。
「北方を統べ、境を安んずる功をもって、趙公に封ず」
そして――孫堅。
「中原を支え、天下の柱たる功をもって、鄭公に封ず」
詔が響く。
さらに――九錫の授与。
車馬、衣服、楽器、朱戸、納陛……
それらは天子より受ける最高の栄誉であった。
三人はそれを静かに受ける。
斉・趙・鄭。
東・北・中原を支える三柱。
この均衡こそが、新たな秩序であった。
堂内には抑えきれぬ高揚が満ちていた。
だが、その中でただ一人、楊彪だけは静かに目を伏せていた。
「……九錫、か」
誰にも聞こえぬ声で呟く。
かつて、それは王莽が与えられし物であり、皇位に迫る者へ与えられた兆し。
「これは……始まりに過ぎぬやもしれぬ」
老いた瞳が三人を見つめる。
その目に宿るのは期待ではなく――警戒であった。
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儀が終わり、洛陽は祝賀に包まれる。
人々は語り合う。
「戦は遠のき国は整い始めた。この三公がいる限り、天下は安らぐであろう」と。
後にこの西方使節団派遣から、その成功、三公就任までの戦の無き時代はこう呼ばれる。
――小康の治。
だが、その水面下では確かに波が生まれていた。
老い焦りを感じる楊彪。
密かに己が力を磨く曹操。
鼎は三足で立つ。
だが――その一つでも揺らげばすべてが崩れる。
春の空は穏やかであった。
しかしその青の奥底には、まだ誰も知らぬ嵐の気配が、確かに生まれ始めていた。
――第十三章、ここに終幕。




