【第百四十一話】海の彼方へ
本話では、西方の国々について、漢からみた国名として一部に独自の呼び名を使用しています。
サータヴァーハナ朝は「南天竺国」、アクスム王国は「紅海の国」と表記していますが、いずれも実在した国家をモデルとしたものです。
史実とは名称が異なる場合がありますが、物語上の表現としてご理解いただけますと幸いです。
また、もし史実における漢字での国名をご存じの方がおられましたら、御教授いただけますとありがたく存じます。
208年初春 建業近海
まだ朝靄の残る水面に幾十もの帆影が静かに揺れていた。
海路西方特使団。
その旗艦に立つのは劉鑠。
かつての揚州太守・劉繇の次子であり劉備より正史に推薦されたのである。
そして副使として並ぶのは若き俊英――諸葛亮と陸遜、船団を率いるのは公孫恭であった。
遼東で鍛えられた水軍を統べる将であり、前の戦での諸葛亮との奇縁もあり、今回の特使の一員に選ばれた。
積み込まれるのは漢の誇る一品揃いであり、陸路では運びにくい品々――精緻なる宝剣、そして青磁。
青白く透き通る器は、海の彼方においてもなお価値を持つであろう宝であった。
岸には見送りの者たちが居並ぶ。
やがて号令一下、張られた帆が風を孕み大きく広がる。
船団はゆっくりと建業を離れ、目指すは西、まだ見ぬ大秦国。
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まず始めに訪問したのは倭国、朝貢の返礼に海に囲まれた島国を訪れた。
その国の人々は質素ながらも礼を重んじ、使節団を丁重にもてなした。
かねてより海を越えた地に興味を持っていた諸葛亮は思わず筆を執る。
“海東の国、風土は湿潤にして人心は素直なり。礼を以て客を迎え、虚飾を好まず”
彼にとってこの旅は単なる外交だけではなかった。
己の知的欲求のままに“観る”こと、そして“記す”こと。
帰国後これらの記録を一冊の本に纏めるのだった。
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倭の女王への金印を贈った後、一行はさらに南へと舵を切った。
途中、交州で停泊し補給を受けている間に一行は州牧である諸葛瑾と士燮の歓待を受けた。
その席で士燮の甥であり、西方との交易に従事している士匡を紹介され同道することとなった。
船団が大海を越え南天竺国にたどり着く頃には冬を越え、新年を迎えようとしていた。
諸葛亮達が降り立ったそこは香料と宝石の集まる地であった。
市場には異国の言葉が飛び交い、香辛料の香りが空気に満ちていた。
陸遜が呟く。
「交州も漢の中では異国の風を感じる地であったが、実際に訪れる異国というのは誠に香りから違いますな」
隣で士匡が市場の果実を美味しそうに食べていた。
「陸遜殿のおっしゃる通り、この地は漢とは全てが異なる地にございます。それは権力の形も異なることを意味します」
諸葛亮は並ぶ品から桂皮を求めその香りをかぐ。
「この香り、頭が冴え筆が走る」
“天竺の南、人は商いをもって国を成す。道は交わり、財は巡る。戦に依らずして富む国なり”
陸遜は静かに頷く。
「戦だけが国を強くするわけではない……か」
漢とは異なる国家の在り方ではあるが、争いの無き世のあり方の一つであった。
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風との巡り合わせを待ち、さらに西へ。
途中、何度か嵐で時間を要し、船団が大きな半島を越え、巨大な大陸との間にある狭き海に入る頃には210年が暮れようとしていた。
海峡の入り口の港で船を停泊させた。
どこまでも続く砂と激しく照りつける太陽のもと、始めてみる駱駝という動物に跨がり、一行はこの地の都に向かった。
「私もこの地まで来るのは初めてですが、民はこの地のことを赤き大地、先ほどの海のことを紅き海と呼ぶらしいです」
暑さに辟易しながら士匡が諸葛亮達に説明する。
「この暑さは漢にはないものですな。私は江南の生まれゆえ、この乾燥した風はちと苦手です」
そう言いながら陸遜は乾いた喉を水で潤す。
王国の都に入ると石で築かれた巨大な宮殿と、その前には眼を見張るような高さの石柱が並んでいた。
使節団は東方よりの賓客としてここでも歓待を受けた。
青磁は王侯の目を引き、宝剣は戦士たちの心を捉えた。
同地より周辺の遺跡群を数ヵ月かけて巡る。
諸葛亮が最も興味を持ったのは、石造りの巨大な建造物、太古の王の陵墓である金字塔であった。
その大きさと偉大さに感動した諸葛亮は同地について記す。
“紅海の国、石をもって威を示す。塔は天に届かんとし、人の力の極みを見る”
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211年晩春
長き航海の末、一行は紅海の北端へと至った。
だが――
そこで彼らは知ることとなる。
「ここより先……さらに海を渡るだと?」
劉鑠が呻く中、案内人が頷く。
「地中海――大秦国の都・羅馬へ至るには、もう一つの海を越えねばなりませぬ」
ここまで来るだけでも大海を越えてきたが、その先になお海がある。
諸葛亮は静かに空を見上げた。
「……遠い」
その一言に、すべてが込められていた。
「しかし、我らの船は海の繋がりがなく、地中海とやらには入れません。いかがしたものか」
陸遜の言葉に一同が困り果てていたそのときであった。
「漢の使節にお会いしたい」
異国の言葉。
だが通訳を介し、意味はすぐに伝わる。
現れたのは、大秦国の使者であった。
使者は一礼し告げる。
「貴殿らを迎える船団が準備されております。どうぞこちらへ」
突然の歓待に一同の間に、静かなざわめきが広がる。
しかし、他に手はなく、その使者の整った衣に規律ある所作はかの西の大国・大秦国の使者としての威厳を帯びていた。
劉鑠が一歩進み出る。
「漢の名において、謝意を表す」
使者は頷く。
「我が国は貴国の来訪を歓迎する」
夕暮れ。
紅海の水面は文字通り紅く染まっていた。
諸葛亮は静かに筆をとる。
“海の果てにまた海あり。誠、世界は広きもの”
漢の使節は今、世界の果てへと至ろうとしていた。




