【第百三十六話】幕間 それぞれの嫁取り―周瑜
202年晩夏 南匈奴
匈奴との戦が終わり、戦の煙もようやく消えてきたある夕暮れ。
勝利した孫堅軍の将たちは匈奴の陣営を訪れその中に周瑜の姿もあった。
若き将は天幕の間を歩いていたが、ふと足を止めた。
遠くから音が聞こえる。
――琴の音色。
それも漢の古曲であった。
草原には似つかわしくない音色に周瑜は音のする方へ歩み寄る。
そこには小さな人垣ができていた。
人々の中央でひとりの女性が古琴を弾いていた。
長い黒髪、静かな表情。
匈奴の地で見るにはあまりに整った漢人の姿であった。
琴の音は柔らかく、草原の荒々しさを包み込むように流れていく。
周瑜は隣で音色に聞き入っている誥升爰に尋ねた。
「彼女は誰なんだ?」
誥升爰は少し困った顔をする。
「我が部族の恥を晒すようで恥じ入るばかりだが……」
小声で続けた。
「父、去卑が漢の混乱に乗じてさらってきた女性だ」
周瑜は眉を動かす。
誥升爰はさらに言う。
「詳しい身分は聞いていないが、かなり高い地位の姫君らしい」
そして人垣の中央を見る。
「音曲に精通していてな。こうして琴を弾いては民を癒してくれる。皆に慕われているのだ」
その言葉の間に、周瑜はふと気付いた。
琴の音が変わっている、と。
先ほどまでの曲調とは違う。
周瑜の口元がわずかに緩む。
(このような音色は……)
その瞬間、演奏が終わった。
人々は満足そうに散っていく。
女性は静かに琴を片付けていた。
周瑜は歩み寄る。
「見事な音色でした」
女性は顔を上げた。
静かだが知性を感じる瞳であった。
周瑜は軽く一礼する。
「私は揚州周氏の周瑜と申します」
女性の目に驚きの色が宿り、そして微笑む。
「揚州の周氏……。それでは、大尉を務められていた周忠殿の御一族でいらっしゃいますか?」
周瑜は思わず目を見開いた。
「周忠は我が従父ですが、御存知でしたか」
「名乗りが遅れ、申し訳ありません」
女性はすぐに頭を下げ、静かに告げた。
「私は蔡邕の娘、蔡琰と申します」
周瑜はさらに驚くのだった。
「蔡邕殿の……」
後漢の大学者として高名な蔡邕。
その娘とこの匈奴の地で会い見えるとは。
だが、すぐに周瑜は笑った。
「なるほど、先ほどの素晴らしい演奏もそれならば頷けます。有職故実に通じた蔡邕殿の御息女であれば漢の古曲も嗜んでおられよう」
蔡琰も小さく笑う。
草原の夕風が吹く。
周瑜はふと琴に目を向けた。
「久しぶりに弾きたくなった」
蔡琰は驚いた。
「周瑜殿も琴を?」
「恥ずかしながら、少しばかり」
二人は並んで座る。
夜の草原に再び琴の音が響いた。
戦をする漢とその戦で運命を変えられた姫。
だがその時だけは、ただの音曲を愛する二人であった。
その夜、二人は心ゆくまで音を重ねたのであった。
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202年晩秋 洛陽
周瑜より報告を受けた孫堅は、匈奴の単于に就任した劉豹に蔡琰の帰還を依頼し、劉豹も快く受諾した。
長く離れていた漢土へ彼女は戻ってきた。
そして洛陽の街で――再び周瑜と出会う。
「久しぶりですな」
周瑜は笑う。
蔡琰も微笑んだ。
「あの草原以来ですね」
周瑜はしばらく黙り、やがて彼には珍しく辿々(たどたど)しい口調となった。
「あの夜の琴を……忘れられぬ」
そして続けた。
「老いてゆくまで、共に音曲を楽しむ仲でありたい」
蔡琰は目を伏せる。
「唐突ですね……」
そして寂しそうに微笑む。
「私は匈奴に連れ去られた身であり、周瑜様に相応しい縁ではありません」
周瑜は何も言えなかった。
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しかし、周瑜は諦めることが出来なかった。
二度目の訪問時は会うことはできなかった。
そして三度訪れる。
部屋の前まで通された周瑜は、扉の向こうの蔡琰に向かい言葉を重ねる。
「私は今のあなたに出会い、共に生きてゆきたいと感じた。あなたの過去も含めて、共に」
蔡琰は長く沈黙した。
やがて扉を開け周瑜を見つめる。
その双眸からは悲しみではない涙が溢れる。
「そこまで仰ってくださるのなら。周瑜様のお気持ちお受けいたします。末永くよろしくお願いいたします」
周瑜は大きく息を吐き、満面の笑みと共に蔡琰を抱き締めるのだった。
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数日後。
その話を聞き、駆けつけた漢がいた。
孫策である。
「公瑾、美周朗たるお前が三度も通っただと?」
肩を震わせて笑う。
「戦ではあれ程苛烈に攻めるお主がな。それだけ素晴らしい女性なのだろう」
周瑜は苦笑した。
孫策は豪快に笑い、周瑜の肩を叩く。
「めでたいではないか!」
杯を掲げる。
「周瑜の嫁取りを祝おうぞ!」
二人の笑い声が響く。
若き将と才女の物語は、こうして始まった。




