【第百三十四話】血の礎
201年仲冬 成都
剣舞騒動により宴は即座に中止となった。
灯火は落とされ賓客は動揺の中で退く。
雷銅は拘束され、殿内に残ったのは不穏な空気だけであった。
劉璋は自室へ戻っていた。
灯の揺らぎを見つめながら、耳に残る声を反芻する。
「仁だけでは治まらぬ!」
雷銅の叫び。
そして――
「州牧殿。今宵の件、いかに処されるか」
曹操の問い。
責める語調ではないが、逃げ場を与えぬ問いであった。
(余は……主に足る器か……)
趙韙に担がれたが御しきれず反乱を招いた。
それが原因で満場の宴席で刃を向けられ、己で太刀打ちできず、他者に庇われた。
その事実が胸を締めつける。
夜は明けぬかのように長かった。
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翌朝、成都政庁。
劉瑁をはじめとして黄権、許靖、龐羲、張任、呉懿、呉班らが左側に列座する。
そして曹操とその将達が右側に居並ぶ。
静まり返る中、劉璋が立った。
「趙韙の乱は私の不才が招いたもの」
震えはあったが通る声で続けた。
「益州の主としての器が私には足らぬのではないか」
一拍。
「ゆえに、私は益州牧の位を兄・劉瑁に譲ることとする」
どよめき。
前へ進み出た劉瑁の顔には、抑えきれぬ歓喜の笑みが滲み紅潮していた。
「劉璋よ……よくぞ決意した。わしに任せておけ」
しかし、主の悲壮な決意に対して嘲るような愉悦の表情を劉瑁が浮かべたことで怒りを覚えた臣がいた。
寒門より劉焉に見出だされ、劉璋にも変わらぬ厚遇を受けていた張任である。
「何を言い出す、この下郎が!」
怒声。
「殿はお優しい方であり、ゆえに趙韙ごときに利用されただけ。益州の主は殿以外にあらず!」
張任は一歩、また一歩と前へ出る。
「乱は臣の不忠が招いたもの。なぜ主が退かなければならぬ!」
劉瑁が狼狽する。
「ま、待て、張任――」
次の瞬間、剣が抜かれた。
「我が大恩ある主を侮る者、許さん!」
刃は劉瑁へ向かう。
とっさに曹操が劉瑁を庇うように前へ出た。
しかし、突然のことに態勢を崩し、張任の剣はそんな曹操の胸に刺さらんとした。
その瞬間――
「父上!」
若き声とともに曹昂が飛び出した。
父の前に身を投げ出したため、張任の刃は吸い込まれるようにその胸へ。
鈍い音と共に血が噴き出した。
「昂!」
曹操の叫び。
許褚が雷のごとく踏み込み、一刀で張任を両断した。
堂内は凍りつき、崩れ落ちた曹昂を曹操が抱きとめた。
血が衣を朱に染める。
「父上……」
唇が震える。
「覇業の……礎と……なれました……か」
曹操の腕が強く抱き締める。
「馬鹿者……!」
曹操の声は震えていた。
曹昂は微笑んだ。
誇りに満ちた微笑み。
「ち、父上が……無事……本望……」
力が抜ける。
その首が父の胸に沈んだ。
曹操は声を上げて泣いた。
抑えぬ嗚咽。
群臣は言葉を失い静まり返るなか、劉瑁は泡を吹きその場に崩れ落ちていた。
自身を危険にさらしてまで他者を守ろうとする漢と庇護されるのみの男。
その対比は、あまりに鮮烈であった。
群臣の胸に刻まれたのは――器の差。
その場で、多くの心が曹操へと傾くのだった。
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翌日。
政務は再開され、劉瑁は曹操と張松を招き深く頭を下げた。
「こ、この度の御恩、生涯忘れませぬ」
曹操を前にして昨日の恐怖がよみがえり蒼白な顔をしていた。
「曹操殿に巴郡太守をお願いしたい」
だが曹操は首を振る。
「某は荊州に治める地を持つ身。重ねて役をこなす器量はござらぬ」
そして静かに告げる。
「もし、貴殿が良ければ我が股肱の臣、夏侯惇に代わりを」
隻眼の将が進み出る。
劉瑁はその威風に圧され頷くのみであった。
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夜。
曹操、龐統、賈詡、徐庶、張松が密やかに集っていた。
杯はあるが祝いの席ではない。
龐統が沈黙を破る。
「策は……成功しました」
だがその声は重い。
賈詡は深く頭を垂れた。
「此度の策は某の立案、申し訳ありませんでした。殿の身を危険にさらし、あまつさえ曹昂様のお命が……」
拳が震える。
剣舞の一件は賈詡の立案であった。
曹操に味方した龐羲、呉懿に話をとおし、忠誠心厚い雷銅に汚れ役を演じさせた。
その策は見事にはまり、思惑どおり劉璋を退陣に追い込み、劉瑁を益州牧に就けることに成功した。
しかし、あまりに鮮やかに策が成ったために曹操陣営に慢心が生まれ、張任の暴走を許すこととなった。
「龐統、賈詡。曹昂を失ったは余の責よ」
曹操は視線を杯に落とし静かに言った。
「主の命をも賭けさせる策。見事の一言であった」
一息つき、呟く。
「昂の死は、余の慢心が招いた……」
剣舞の席では刃が己に届かなかったことから、二度目も同じことと油断した。
それが真実であった。
張松は曹操と臣のやり取りを見て深く拝する。
「その度量……見事にごさいます。我が命を賭けるに足る御方」
野心多き張松も曹操の器に魅了されるのだった。
曹操は立ち上がり、窓外の闇を見つめる。
一筋の涙が頬を伝った。
「曹昂の死を無駄にはせぬ」
拳を握る。
「益州は――我が手中とする」
静かな、しかし揺るがぬ誓い。
張松が招き入れた風はすでに益州全土を包み始めていた。




