【第百三十二話】三つの策
201年仲冬 成都
趙韙の乱が鎮まり城中には安堵の空気が広がっていた。
その中で、成都城の一角に設けられた曹操の仮座敷には別の空気が流れていた。
灯火の下、曹操と龐統のみが対座している。
外では青州兵が静かに営を整え、許褚が無言で控えていた。
龐統が口を開く。
「殿、益州は今、掌中にございます」
その声音は低い。
「ここで三策」
曹操は杯を置いた。
「申せ」
「上策。今すぐ劉璋を捕らえ、成都を制圧なさること」
灯が揺れる。
「兵は城内に入り、城門も押さえました。今ならば一夜にして益州は殿のもの」
確実であり迅速な策。
反乱鎮圧の余勢をもって主を挿げ替える。
だが――
「ただし」
龐統の目が細くなる。
「殿の名声に傷が付きましょう。救援を名目に入り、主を捕らえる。天下は必ずしも善しとは申しますまい」
「中策。宣戦布告の上、正攻法で攻め取る」
曹操の視線が動く。
「此度の宴席で非礼を咎め、殿の名誉を守るために宣戦布告、堂々と益州を討つ。名分は立ちましょう。だが武陵からの糧道は長く、山道は険しく、涪城の協力も永続する保証はありませぬ」
名は守れるが確実性に欠ける策。
「下策。名声のみ得て撤退」
龐統は淡々と述べた。
「救国の英雄として益州に名を刻み、恩を売り、時を待つ」
名は上がるが実はなき策。
「益州は再び閉ざされ、他者が門を叩くやもしれませぬ」
沈黙。
外からは宴の準備の音が微かに聞こえる。
曹操はしばし目を閉じた。
この地は天然の要害であり資源の宝庫。
張松という“鍵”で門は開いた。
今、扉の内側に立っている……。
そのとき――
「失礼仕る」
張松が密やかに入室した。
その顔には興奮が浮かぶ。
「曹操殿、急ぎの報せが」
曹操の目が開く。
「呉懿、呉班、雷銅、呉蘭」
張松は一人ずつ名を告げる。
「さらに龐羲も――」
龐統の眉が僅かに動いた。
「此度の曹操殿の力を見て、皆、殿に帰順する意を示しております」
室内の空気が変わる。
「彼らは劉璋に失望し、益州を立て直す主を求めていたのです」
龐羲。
涪城で会した益州外出身勢力の筆頭。
遠ざけられていたとはいえ、隠然たる力を持つ彼が味方になるという報告は決定的であった。
曹操は立ち上がる。
灯火が映すその影は雄々しいものであった。
「龐統」
「はっ!」
「三策と言ったな」
龐統は静かに頷く。
曹操は灯火に向かい歩きだす。
「名を損じる上策」
一歩。
「利を失う下策」
さらに一歩、歌うような美しい韻。
「時を費やす中策」
張松の鼓動が高まる。
曹操は振り返った。
「ならば」
その顔には、悪戯を思い付いたような無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「全てを取るが我が策」
場の空気を全て我が物とした曹操が続ける。
「劉璋は漢室の宗親であり大罪はない。だが、蜀を治める才なきは明白。」
張松の視線が揺れる。
「ならばそれを己に自覚させ、兄、劉瑁殿に座を明け渡させる」
龐統が微笑む。
「血を最小に、実を最大に」
曹操は頷き、その拳を握り締める。
「その後は全てを我が物とす」
張松はそんな曹操の姿にひれ伏した。
外では勝利の宴が始まろうとしていた。
だが成都の夜において、本当の勝負は今、決した。
曹操は静かに杯を取り上げる。
「宴だ」
その声は穏やかであった。
だがその胸中には、すでに益州統治の構図が描かれていた。
救国の英雄、その名声を帯びたまま――
乱世の奸雄は益州を掌中に収めようとしていた。




