【第百三十話】奇貨居くべし
201年晩秋 荊州武陵郡
夜更け。
灯火の下、曹操旗下の重臣が揃っていた。
主座に曹操。
その左右に郭嘉、劉廙、龐統、徐庶、正面には夏侯惇が控える。
さらに張繍の知恵袋であり、曹操との共闘の印に傘下に加わっている賈詡も同席していた。
卓上には一枚の地図――張松が献じた西蜀地形図。
沈黙を破ったのは郭嘉であった。
「殿」
扇を軽く揺らす。
「張松の才は疑いありません。だが益州は遠く、険しく、兵糧の線は長くなります。趙韙の乱は口実であり、実は内政干渉。軽々(けいけい)に兵を動かすは得策ではありますまい」
劉廙も続く。
「益州は閉ざされた地。過分な介入は地元豪族の反意をまねき、殿に対して刃を向けてきましょう。まずは趙韙討伐のみを助け、深入りせぬが上策かと」
慎重論であった。
武陵はようやく整い始めたばかりであり、ここを空ける危険もある。
対して、客分である賈詡がゆるりと口を開く。
「遠い、しかしそれがゆえに価値がある」
視線は益州を囲む山脈へ落ちる。
「涼州におりし頃伝え聞く。蜀は天然の要害であり、資源の宝庫。一たび得れば中原から独立した地で力を蓄えるに最適の地。しかも今は内乱の只中」
龐統が頷く。
「固き門でも張松という“鍵”がある。門を開ける者がいる以上、今こそ天の時」
徐庶は冷静に分析する。
「地形は険しく、道は限られる。しかし張松の案内があれば武陵からの補給路は確保可能。これこそ地の利」
指が成都を指し示す。
「そして、民心は劉璋に対し不満を持っており、豪族の反乱を平定するという“救国”の名を掲げれば、民の心、つまり人の和も得ることが出来ましょう」
理の積み重ね。
夏侯惇が鼻息荒く腕を組む。
「小難しいことは俺は好かん。要は孟徳が起つか起たぬかだ」
全員の視線が曹操に集まる。
曹操は地図を見下ろしたまま動かない。
やがて口元が歪む。
「奇貨居くべし」
ぽつりと呟いた。
「張松という奇貨。今を逃せば二度と手に入らぬ」
視線が上がる。
「益州は劉焉の時より、閉じることでその栄華の中で腐ってきた。だがこれを開けたときにはその価値は何倍にも大きくなろう」
郭嘉が静かに問う。
「殿、深入りすれば引き返せませぬぞ」
曹操は笑う。
「引き返さぬわ」
即答であった。
「趙韙を討つのみでは足らぬ。益州の主を定め、形を整える。その後に名も実も取る」
劉廙が切り替えて前後策を問う。
「では武陵は」
曹操は振り返った。
「荊州は曹仁に任せる。郭嘉、劉廙、内政はお前たちが締めよ。満寵、牛金を補佐として残す」
郭嘉は一礼。
「承知」
劉廙も深く頭を下げる。
龐統の目が細くなる。
「では殿自ら?」
「征く」
即断。
「西征は荒れるだろう。荒れる地にこそ、主が範を示すべきだ」
賈詡が笑う。
「奸雄の風が益州でどう吹くか……」
曹操は賈詡を睨み付ける。
「飄々とした物言いだな、賈詡よ。そなたの知恵も貸せ。疾く趙韙を討ち、益州を手に入れるぞ!」
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翌朝、出陣の準備が始まった。
西へ向かう軍勢は青州兵を中心とした兵二万。
決して多くは無いが数多の戦を戦い抜いた精鋭であった。
翻る旗には蒼地に「曹」の字。
郭嘉は城壁から見送った。
「……さて、益州はどう転ぶか」
劉廙は静かに答える。
「殿は己が利に転ばせましょう」
遠く、西の空は薄く曇っている。
だがそこへ向かう風はすでに動き出していた。
張松という奇貨。
曹操はそれを掴んだ。
そして放さなかった。




