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【第百二十九話】陳平の器

201年晩秋 荊州武陵郡


夜。

張松の宿舎を一人の漢(おとこ)が訪れた。

痩躯、鋭い目、どこか飄々とした風貌。

龐統である。

「西蜀の才士殿。武陵の風はいかがかな」

軽い調子で言う。


張松は杯を置いた。

「法も民も整っており軍も無駄がない。……が、息苦しくもない」

「ほう」

龐統は笑う。

「益州とは違う、と?」


沈黙。

それが答えだった。


龐統はさらに一歩踏み込む。

「趙韙(ちょうい)討伐の助力。確かに名目としては筋が通る。だが、あなたの目はそれだけを語っておられぬ」

張松の視線が鋭くなる。

「何が言いたい」


「益州は今、誰のものか。劉璋殿か。趙韙か。それとも――」

一拍置く。

「劉瑁殿か」

張松の指が止まった。


龐統は静かに続ける。

「兄は押し退けられ、弟は主の座にある。しかし豪族は専横を極め、主は優しいがそれは柔弱(にゅうじゃく)に過ぎず、そのせいで才ある者は埋もれている」

張松の胸の奥に抑え込んでいたものが揺れる。

「……益州は、腐りかけている」

抱えていた不満が漏れた。

「趙韙の乱は表の傷だ。だが本当の病は、主の弱さにある」


龐統は目を細めた。

「ならば、貴殿は如何にする?」

張松は立ち上がった。

「劉瑁様を益州の主に!」

言葉が夜気を裂いた。


「趙韙鎮圧は口実。真に求めるは益州の主を替えること。そのために外の力を借りるために参った」

一瞬の沈黙。

「そして――」

龐統が促すと張松は自嘲気味に笑った。

「己が栄達を得る」


吐き出した。

長年、胸に溜め込んだ野心。

容貌を嘲られ、策を退けられ、軽んじられてきた才。


「才があるなら、用いられる場に立つべきだ。用いぬ主に尽くすは愚。されど劉瑁殿でも貴殿の才に見合う主か……」

龐統の呟きは張松の心の闇に広がっていくのだった。



---


翌日。

龐統の進言により、曹操の私室で秘密裏に軍議が開かれた。

居並ぶは曹操を主座に夏侯惇、郭嘉、劉廙(りゅうよく)、龐統、徐庶。

そして張松もその場に列していた。


龐統は張松の真の目的を包み隠さずに述べた。

その言葉に場の空気が変わり、劉廙が眉をひそめた。

「殿、この男は主を売る者。野心多く、己が利のために国を動かそうとする者にごさいまする。その策に乗るは危うきことかと」

静かだが強い声音であった。


張松は劉廙を睨む。

「益州を救うためだ」

「己を救うためであろうが!」

劉廙の言葉は容赦がない。

「主を替えるために外兵を入れる。それは乱を拡げることになろう!」


二人の問答に場が緊張する。

曹操は沈黙していた。

やがて――ふっと笑う。

小さく、次いで腹を抱えるように笑った。

「はははは!」

皆が目を向ける。


曹操は張松を見据えた。

「余が求めるは唯才のみ」

一言。

「忠か義かを問うておるのではない。使えるか否か、それだけだ」

劉廙がなお言おうとするが、曹操は手で制す。

「張松の野心は確かに大きい。だが、それに見合う才を感じる」

立ち上がる。


「漢の高祖に仕えし陳平」

曹操は立ち上がりながら張松を見据える。

「兄嫁を寝取るような徳の無い漢(おとこ)だが、主を選び、時を読み、策をもって天下を動かした漢(おとこ)」

曹操は続ける。

「そなたの野心と才を比すれば、まさに陳平の器であろうな」


その瞬間、張松の目から涙が溢れた。

己の容貌を笑わず、

己の策を退けず、

己の野心を否定せず。

それを“器”と呼んだ。

初めてであった。


劉廙はなお厳しい視線を向けていたが、兄弟子の龐統がとりなした。

「張松殿の才はその野心ごと、殿の器に入りましょう。某(それがし)が思うに殿の器はかの高祖を越えましょうからな」


龐統の言を聞き、さらに大笑する曹操に向かい、張松は深く拝した。

「……この身、曹操様にお預けいたします」

声が震える。

だが迷いは消えていた。

曹操は静かに頷いた。

「ならば共にゆくか」


張松は立ち上がる。

もはや劉璋からの使者ではない。

劉瑁との謀議の駒でもない。

歴史を動かす策士として、己の道を選んだ。

龐統は横目でそれを見て、微かに笑う。

“陳平の器”が動かした風は、確実に西へ向かい始めていた。

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