【第百二十八話】西蜀よりの使者
201年晩秋 荊州武陵郡
西よりの一行が荊州へ入った。
先頭に立つのは張松、益州牧・劉璋の名代としての使者である。
名目は趙韙の反乱鎮圧への助力要請。
だが張松の胸中には暗き野望が渦巻いていた。
荊州南部へ入った瞬間、空気が違うと感じた。
街道は整備され、馬車の轍が一定の幅で刻まれている。
水路は澄み、堤は補修され、農夫は静かに働く。
兵は威圧的ではないが緩みもない。
規律が徹底されていた。
益州は豊穣な地ではあった。
だがそこにはどこか澱んだ空気が漂っていた。
豪族は私兵を抱え、中央は及び腰で外の脅威に怯えていた。
この地は違う。
整然としていて生気に満ち溢れている。
張松はその空気を感じ、わずかに目を細めた。
---
武陵城。
門をくぐったとき、怒声が響いた。
「腰が高い!」
豪胆な声。
視線を向けると、訓練場で若い将たちが武器を構えていた。
中央に立つ巨躯の男――許褚。
対するは四人。
曹真、曹休、寇封、牛金。
いずれも若いが、目の光が違った。
許褚の鉄棒が唸る。
曹真が受けるがいなしきれず弾き飛ばされる。
すかさず曹休が横から切りかかり、対側から寇封が踏み込み、牛金が背後を狙う。
文官の張松から見ても三人の連携は見事なものであった。
だが歴戦の猛者許褚にとっては隙だらけであった。
一瞬で崩され、四人が砂に転がる。
「もう一度だ!」
叱責の声で四人は即座に立つ。
悔しさを飲み込み、再び構える。
張松は足を止めて見入ってしまった。
今はまだ若さゆえの荒さはあるが、数年後どう育つか。
この覇気を持ったまま成長すれば、それぞれが一軍の長となる資質を感じた。
またこの練武はその漢達が仕える主の器を雄弁に物語っていた。
やがて張松は曹操に謁見するため執務室に通された。
部屋は華美な装飾はなく質素であるが整っていた。
執務室の奥で曹操は書簡を整理していた。
視線が上がる。
鋭い視線であった。
「益州よりの使者、張松にございます」
張松は礼を尽くす。
「お恥ずかしい話ですが益州では趙韙の乱、未だ収めることができず。我が主・劉璋は、貴公の兵威を借りたく――」
定型の口上を述べる。
そして懐から巻物を取り出した。
「ささやかながら、土産にございます」
広げられた地図、西蜀地形図であった。
山脈、河川、関所、要害。
道幅、補給路、城郭配置。
要所を押さえた緻密な地図であった。
曹操は眼を輝かせ立ち上がった。
地図に近づき、指が山脈をなぞる。
「この剣閣という土地……道は狭く、険しいな。少数の兵で守るに適した土地だな」
張松の喉がわずかに鳴る。
(わかるのか、この価値を。しかも一目で!)
曹操は地図から目を上げた。
「見事だ。貴公が作ったのか?」
「……はい」
「良い目を持つな」
それだけであった。
華美な賛辞ではなかったが、確かに認められた。
張松の胸の奥に熱いものが込み上げてきた。
益州ではどうだったか。
容貌を笑われ、意見は軽んじられ、策は採られることはなかった。
主・劉璋は温厚だが決断は鈍い。
豪族の顔色を窺い、趙韙の専横を止められぬ主であった。
そのせいで益州は閉じた空気に満たされており、澱み、腐りかけた水溜まりのようであった。
だがここは違う。
法は整い、治政は行き届き、若き将がのびのびとしていた。
また、その主は我が渾身の作品であるこの地図の価値を瞬時に見抜く漢であった。
張松は初めて、己の策が活きる場を想像した。
劉璋のもとでは己は飾りにもならずに終わる。
だがこの漢、曹操のもとならば。
その思いが、胸中で形を持ち始める。
曹操は再び地図を巻いた。
「趙韙の件、承知した」
静かに言う。
「益州は遠い。だが、我が力を求めるならば答えよう」
張松は顔を上げ、曹操を見つめ、その目の奥にあるものを測ろうとする。
だが、底が見えない。
野心か、打算か、あるいはその両方か。
だが一つだけ確かなことがある。
この漢は停滞を好まぬ。
動かす、いや動かせる。
閉ざされた益州に今、外からの風が吹き込もうとしている。
それは己や益州の地にとって救いか、破滅か。
まだ誰も知らぬ。
ただ、張松は感じていた。
己は今、歴史の分水嶺に立っていると。




