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【第百二十七話】雌伏の時

201年初秋 荊州武陵郡


卓上には戸籍簿と法令書が積まれ、その卓を挟んで曹操の前に座するのは郭嘉であった。

「隠匿戸数、三十七。いずれも去年の検地後に消えた家です」


「逃散か、偽装か」

郭嘉の説明に曹操は問い返す。


「半ばは徴発逃れ。残りは地方豪族が抱え込み、私有民とした形跡が」

一瞬、空気が冷えた。


「豪族の名は?」

曹操の問いに郭嘉は黙したまま紙片のみを差し出した。


曹操はその紙片に記載された名を一瞥しすぐに戻した。

「首は斬らぬ」


郭嘉が驚き目を上げる。

「斬れば人が減る。この地の民は中原程多くはないゆえな。ただし見せしめは必要だ」

曹操は机を指で叩きながら法令書をめくる。

「田地の三割を没収。三年の労役を課す。だが家族が飢えぬよう差配せよ」


郭嘉の口元がわずかに緩む。

「殿にも寛の心がありましたな」


「違うな」

曹操は口許に笑みを浮かべ否定した。

「秩序を作るだけだ。仁や義などではこの乱世は治められん。厳格な法の元に公平な施政が必要なだけだ。それに、死んでしまえば働けぬしな」


法は為政者の権威の道具ではない。

万民が安らかに過ごせるために為政者をも律する力なのだ。


郭嘉は曹操の『治世の能臣』の一面を垣間見て、ただ平伏するのだった。



---


午後。

庭先では劉廙(りゅうよく)が地図と農政案を広げていた。

「この川筋を曲げれば下流の田五百町が安定します」


彼が指し示す線の目的と結果は明瞭だった。

だが、曹操は難点を即座に看破する。

「工期は」

「二月。ただし……人足三百が必要となります」


曹操は軍事訓練の日程を計算して険しい表情となる。

「兵の訓練日程と重なるぞ」


「ですが兵糧が安定すれば、徴発は軽くなります。なればこの地に定住する民が増え、自ずと殿の元に集まる財と兵は増えまする」

劉廙の発言は理路整然としており、今ではなく、十年先を見据えた計画であった。


曹操はしばし沈黙し地図を見つめた。

戦で奪うだけではなにも産まれない。

土地は手に入れた後にこそ為政者の価値が試される。


一息つき劉廙に向き直る。

「つくづく思う。余は臣に恵まれてると。劉廙、おまえの思うようにやれ。財と兵は言うように用意しよう」

劉廙は即座に拝した。



---


長沙


曹操は長沙太守・蔡瑁に酒宴に招かれた。

城内の大広間では、灯火が並び、楽の音が静かに流れていた。


蔡瑁は杯を掲げた。

「武陵の統治、見事ですな。荊南の地もいずれ安泰となりましょう」

曹操は軽く応じる。


宴席には郡内の有力者たちも列していた。

豪族、郷紳、将校。

その中で、ひときわ落ち着いた若者がいた。


年はまだ若いが背筋は真っ直ぐに伸び、言葉は簡潔で無駄がない。

杯を勧められても過度に浮かれず、問われれば的確に応じる。

若さゆえの軽薄さがなかった。


曹操の視線が止まる。

「……あの若者は」

蔡瑁が振り返った。

「あれは寇封。長沙劉氏に連なる豪族、寇氏の嫡子ですな」

「劉氏に連なる、か」

「まあ、血統は確かですが、まだまだ若さが目立つ男ですな」


曹操はそれ以上問わなかった。

だが視線は外さず見ていると、若者はその視線に気づいた。

だが曹操の鋭い視線にも怯えず、逸らさなかった。


宴は続いていたが、曹操の関心はもはや杯や音曲にはなかった……。



---


数日後、曹操は供を最小限に寇氏の屋敷を訪れた。

格式ある門構えで庭は広く、整えられていた。

その庭先で槍が閃いた。

練武を行っていたのは寇封であった。


踏み込みは深く、腰は落ち、槍先は無駄なく空を裂く。

型をなぞるだけではなく、実戦を意識した運び。


曹操が足を止めたのに気付き槍が止まる。

寇封は父の声に振り向き、曹操に向かい深く一礼した。


屋敷に通されると、当主にむかい曹操は単刀直入に告げた。

「寇封殿を我が陣営に迎えたい」


静かではあるが凛とした一言に屋内の空気が張り詰める。

「若輩にございますが……」

「若さは問題ではない」

曹操は遮った。

「私が求めるのは唯才のみ。また、若ければ磨くことでさらに光ることが期待できる」


余計な説得はしない、条件も示さない。

ただ、欲する意思のみを示す。


寇氏は深く頭を下げた。

「本人の志に委ねましょう」

曹操はそれ以上留まらず、屋敷を辞した。



---


夜。

寇封は父の前に正座していた。

「どうする」

父の問いは短い。


寇封は迷わなかった。

「士は己を知る者のために死す」

静かに、しかし確固として意志を示す。

「曹操殿は私を見た。血でも評でもなく、私の才を」


父は長く息を吐いた。

「乱世だ。道は険しいぞ」

「承知しております」

一礼。

「己を必要とする主に仕えとうございます」


父はやがて頷いた。

「行け。寇の名を辱めるな」


数日後、武陵の政庁に一人の若者が現れる。

寇封であった。

「お仕えしたく、参りました」


曹操は席を立たぬまま彼を見る。

「覚悟のあるよい眼だ。」

曹操は目を細め口許にはわずかな笑みが浮かぶ。


「長沙の麒麟児を迎えられたこと嬉しく思う。共にゆくぞ」

「はっ!」

その言葉に寇封は深く拝した。

こうして武陵に新たな若木が加わる。


武陵は静かに、だか確かに次の戦いへの準備を整えるのだった。

天下から見ればわずかな風ではあるが、それは後に

その天下を奮わせる大風(おおかぜ)となる核であった。

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