【第百二十六話】不遇なる者たち
<第十二章>それぞれの道、曹操
201年初秋 益州蜀郡・成都
蜀の夜は重く沈んでいた。
成都の城郭を包む闇は深く、湿り気を帯びた空気が灯火の火を弱々しく揺らしていた。
張松は低い卓に肘をつき、盃の酒を一息にあおった。
(苦い)
酒の味がではない。
己の胸に溜まり続けてきた、澱のような思いが喉を焼くのだった。
「……蜀は、変わらぬな」
張松の口をついたその一言は独り言というには少しだけ声が大きかった。
向かいに座る男――劉瑁は静かに盃を置いた。
益州牧を父にもち、兄達の死によってその座を手にしつつあった男。
だが、今はその地位を弟・劉璋に盗られ、半ば幽閉のような日々を送っていた。
「変わらぬ、か」
劉瑁は薄く笑った。
その笑みには、諦念と消えぬ悔恨とが絡み合っていた。
「変わらぬのはこの地の人です。外を恐れる者が上に立ち、外の風を拒む。……それが今の益州という国です」
張松は鼻で笑った。
「外の脅威に怯え、内の諫言は聞かぬ。趙韙の専横を見て見ぬふりをし、己の保身ばかりを考えている――」
盃を置く音がやけに大きく響いた。
張松は己の容貌をよく知っていた。
低い背丈、歪んだ顔。
人はまず、その姿を見て笑う。
次に話を聞かずに去っていく。
己に才がないのではない。
才を示す前に門が閉ざされるのだ。
「劉璋は……悪い男ではない」
劉瑁がゆっくりと言った。
「だが、善い人間が良き主とは限らぬ。この乱世、善だけでは治まらぬのだ」
その言葉に張松は目を細めた。
「御兄上ともなるとお優しいですな」
「……牧の座を奪われようと、兄弟であることに変わりはないからな」
劉瑁はふっと息を吐いた。
「ですが、劉瑁様。益州はこのままではいずれ飲み込まれます。中原の争いがここまで来ぬはずがない。その時、ただ座して滅びるか――それとも、先に風を呼び込むか、です」
劉瑁の指が盃の縁をなぞった。
「風、か」
「そうです。風です」
しばし沈黙が落ち、灯火が二人の影を壁に歪ませた。
張松はふと顔を上げた。
「劉瑁様……隣国荊州で昨今、力を示した漢をご存じですか?」
劉瑁は首をふる。
「曹操孟徳」
その名を口にした瞬間、張松は己が心が浮き立つのを感じた。
「人を自在に使うと聞きます。出自も、容貌も、過去も問わぬ。唯だ才ある者には場を与える男だと」
劉瑁は張松の目を見た。
そこには飢えがあった。
認められたいという、むき出しの渇望が。
「張松」
劉瑁も張松の意気にあてられ高揚する己を感じた。
「その風を、呼べるか」
張松はゆっくりと立ち上がった。
酒で赤らんだ眼に宿志の光が宿る。
「呼んでみせましょう」
低く、しかし確かな声だった。
「この益州に、変革の風を。……そして、私自身の運命にも」
成都の夜は静かだった。
だがその闇の底で、確かに何かが動き始めていた。
蜀にやがて吹き荒れる風は、まだ名を持たない。
だがやがて――
それは「曹操」と呼ばれることになる。




