【第百二十三話】蒼梧再戦
203年仲夏 交州蒼梧郡
湿った森は敗走した兵を飲み込むように静まり返っていた。
折れた槍、泥にまみれた甲冑。
関羽は倒木を背に座し、士燮と虞翻、賀斉、陸遜を前に軍議を開いた。
「象を破らねばこの地は進めぬな」
若き陸遜が一歩進み出る。
「士燮殿、象の弱点は何でしょうか?」
士燮は南方の地に長く生きてきたこともあり、迷いなく答えた。
「二つある。一つ、小回りが利かぬこと。二つ、火を恐れること」
関羽が頷き虞翻を見る。
「ここは火攻めでしょうか?」
虞翻の質問に対して士燮は首を振った。
「この地は湿潤。特にこの季節は草も木も水を含んでおり、火勢は広がりにくいでしょう」
陸遜の目が鋭く光る。
「ならば、火ではなく地を用いましょう」
関羽が視線を向ける。
「申せ」
「象は巨体ゆえ、それを支えるに必要な地の強度ははかり知れません。あらかじめ陣前に落とし穴を設け、偽退で敵を誘い込みます。小回りが利かぬ象は踏み止まれないでしょう」
士燮が静かに笑った。
「なるほど……地を以て巨を制す、か」
関羽は即断した。
「よい。その策をとる。今宵より準備だ」
揚州軍は森陰に新たな陣を築く。
前面は緩やかな草原へ続く平野であり、象が突進するには最適な地形であった。
陣の木柵の内側には深く掘られた穴が並んでいた。
底には削った竹槍を立て、上は薄く土と草で覆う。
幅は象の歩幅を計算し、わずかに不規則に配置した。
陸遜は地図を指しながら言った。
「最初の接触後、我らは偽りの敗走を演じます。象を弓矢の攻撃で興奮させ一直線に追わせましょう」
関羽は聞き終えた後、静かに宣す。
「兵には恐れることなく、だが恐れる演技を徹底させよ」
---
区景は前回の勝利により自信を深めていた。
象兵を前列に並べ、その力で敵を早々に戦意喪失に追い込み撃退する。
それにより荊州で敗れ、失墜した己の名誉を挽回する意気込みであった。
対する関羽は陸遜と共に自ら中央に布陣し、賀斉を前衛、虞翻、士燮を両翼に配した。
開戦と共に矢が飛び、槍がぶつかる。
だが今回の区景は動きが速かった。
「象兵、中央突破!」
太鼓の音が変わる。
三列に並んだ象が、扇形に広がりながら進む。
正面より崩し、左右を分断する布陣。
「槍を固めよ!」
賀斉の号令。
だが前列に湿地があり、足場が悪い。
槍隊の列がわずかに歪む。
そこへ巨体がぶつかった。
一列目の槍が折れ、二列目も弾かれる。
三頭が同時に踏み込み、中央が押し潰された。
兵が吹き飛び隊形が裂ける。
「中央、崩れました!」
伝令が叫ぶ。
その瞬間、区景は歩兵を前進させた。
象の突破口へ歩兵が錐のように突き進み、揚州軍の前衛が分断される。
本陣の関羽も馬を進め青龍偃月刀を振るう。
一頭の鼻を断ち、二頭目の目を裂く。
だが敵は止まらない。
左翼の士燮軍も圧迫を受けている。
「左が下がっています!」
伝令が駆け込んでくる。
陸遜が息を詰めて状況を見る。
「このままでは本陣が包囲されます!」
象が通った後は血と混乱。
そこへ区景軍が雪崩れ込み、揚州軍の連携が失われつつあった。
関羽は一瞬、歯を食いしばった。
ここで踏み止まれば中央は全滅する。
「……退け」
低く、だか通る声で命令する。
「全軍、第二線へ後退!」
それは策の発動でもあったが、同時に現実的な撤退でもあった。
兵は後退を始める。
だが象は勢いを得ている。
「踏み潰せ!」
区景の号令とともに象が加速する。
後退中の兵は隊形を保つのが難しく、数名が踏み潰され、土煙の中で叫び声が交錯する。
関羽も陣頭に立ち、象の進路を一瞬でも遅らせようとする。
大地が震える。
興奮した象は止まらず、一直線に、陣へ――
その瞬間。
――ズブリ。
先頭の一頭が地面を踏み抜き、巨体が前のめりに落ちる。
後続は避けようとするが、小回りが利かず、二頭、三頭と落下。
竹槍が腹を貫き、血が吹き上がる。
悲鳴と咆哮が混ざり、騎乗兵が投げ出される。
「討て!」
関羽の号令一下、伏せていた弓兵が一斉射撃を開始した。
陥穽に落ちた象は立ち上がることはできず、騎乗兵達も射抜かれていく。
混乱する象が互いにぶつかり、暴れ、隊列を乱す。
やがて象兵部隊は機能を失った。
三十頭のうち、立てるものは数頭に過ぎなかった。
区景の顔から笑みが消えた。
陸遜が冷静に指示を飛ばす。
「残存兵に対して側面より包囲を狭めよ!」
象を失い動揺した区景軍に揚州軍が反撃に出た。
関羽が赤兎馬を駆り、青龍偃月刀が翻る。
「今こそ前へ!」
虞翻と士燮も両翼から圧迫し、前衛を立て直した賀斉も包囲に加わる。
区景軍は支えを失い後退したが、揚州軍の追撃は苛烈だった。
区景は這う這うの体で残兵を率いて広信城へ退却した。
---
広信城に対して、関羽軍は距離を保ち整然と布陣した。
その中央には張允の墓標代わりに折れた槍が立てられていた。
「貴殿の死は無駄にはしない」
陸遜はそれを見つめ静かに呟くのだった。




