【第百二十一話】左伝の友
203年盛夏 交州南海郡・龍川
河を挟んで対峙する関羽と士燮の軍。
そんな両軍の間に一艘の小舟が漕ぎ出してきた。
「揚州牧・関羽将軍とお見受けする。交趾郡太守を勤めております士燮と申します」
士燮がわずかな供回りとともに接岸、上陸してきた。
白髪交じりの温厚な顔だが、その眼差しは鋭く澄んでいた。
関羽も馬を進め、深く一礼する。
「漢左将軍・劉備が臣、関雲長。区景討伐のため、この地に参じた」
一瞬の沈黙。
そして――士燮は、微笑んだ。
「ならば、話が早い。私もまた張津の仇を討たんとしていた」
その言葉に、両軍の空気が一変する。
虞翻が静かに息を吐いた。
「……剣を抜かずに済みましたな」
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その夜――
南海郡の陣営に静かな焚き火が灯り、湿った夜気の中、関羽と士燮は向かい合い、杯を手にしていた。
武具を解いた関羽の姿は戦場とは別人のように落ち着いており、士燮はその様子を見て微笑んだ。
「将軍……噂に違わぬ偉丈夫ですが、剣を置くとまるで書生のようですな」
関羽はわずかに口許に笑みを浮かべる。
「……恥ずかしながら、若き頃より春秋左氏伝を愛読し暗誦できるほど読み込みました」
士燮は関羽の言葉に目を見張った後、杯を揺らし、焚き火を見つめながら語り始めた。
「若き日、洛陽に遊学しておりました。その折――潁川にて劉陶という御仁に学びましてな」
その名に今度は関羽の目が見開かれる。
「劉陶……清流の士。党錮の難にあっても節を曲げなかった士と聞く」
士燮は深く頷いた。
「ええ。利で人を測るな、義で世を見よ――そう教えられました」
しばしの沈黙。
やがて士燮は探るように言った。
「将軍は……左伝をどう読まれますかな?」
関羽は焚き火から視線を逸らさず、静かに答えた。
「――『春秋左氏伝』は、儒のみの書ではない」
士燮の口元がわずかに緩む。
「ほう」
「人がなぜ剣を取るのか。なぜ国が滅び、なぜ残るのか――それを記した書、と」
関羽はふっと息を吐いた。
焚き火の火が二人の顔を赤く照らす。
士燮は深く息を吐き頭を下げた。
「……この南の地で将軍のような“義を読む剣”に会えるとは思わなかった」
「士燮殿、晋の名臣・叔向と鄭の名宰相・子産は互いを深く理解し合う関係であったと左伝にあります。我らも二人の仲に習いたいと思うがどうかな?」
関羽が杯を掲げる。
士燮は微笑みながら頷き杯を掲げ、二つの杯が静かに触れ合った。
「正に、左伝の友として」
その音は交州の行く末を定める確かな契りの音であった。




