【第百十五話】傾向と対策
202年盛夏
大敗ではない。
だが、敗北に違いはなかった。
その事実が孫策軍の本陣に重くのしかかっていた。
陣幕の中、沈黙を破ったのは周瑜だった。
「――今回の敗因は、はっきりしています」
周瑜は地図を広げ去卑軍の動きを指でなぞる。
「去卑軍を“自由にさせすぎた”……この一点につきます。機動力を奪えず、戦場そのものの支配権を握ることが出来ませんでした」
孫策は黙って頷く。
朱治も苦い顔で言った。
「影矢隊の矢は届きはしたが、いかんせん数が足りん。さらに魏延の重装騎兵が届かなかったのが致命的だったな」
「ええ。敵は素早く散り、そして集まる。こちらが対応する前にすでに次の一手に移っている」
周瑜は拳を握った。
「戦場を限定せねばなりません。匈奴の“走る戦”を、こちらの“組む戦”に引きずり込む必要があります」
その言葉を受け、法正が口を開いた。
「……劉豹殿。この辺りに、匈奴の騎馬を縛れるような狭隘地はありませんか?」
劉豹は腕を組み、しばし考えた末、首を振った。
「我らの地は蒼穹の神より与えられし広き広き平原だ。峡谷や隘路はない。だが――」
彼は地図の一角を指した。
「川はある。漢の地より流れ込む黄河の支流を東にもつ地がここだ。この地であれば奴らの片翼は落とすことは出来る……だか西には丈の高い草地が続くのみで騎馬の民であれば壁にはならん」
その瞬間、周瑜の目が光った。
「……ならば」
全員の視線が集まる。
「片側は我らで塞いでしまえばよいでしょう」
静まり返る陣幕。
孫策がその沈黙を破る。
「だが周瑜、土木工事が得意であった秦の始皇帝の真似事でもするのか?にしても時がかかりすぎる」
周瑜が微笑みながら己の策を披露するのであった。
---
それから二週間。
孫策軍は動かなかった。
陣に籠もり、挑発にも乗らず、防戦に徹した。
去卑は何度も仕掛けたが、弓矢での反撃を受け、思うような戦果が挙げられず、苛立ちを募らせていた。
そして二週間目の朝。
孫策と劉豹が激しく言い争う声が陣内に響いていた。
「なぜ戦わぬのだ!これ以上、亀のように籠るのは我慢ならん!」
「何を言うか!策無く戦えば、先の戦の二の舞だ!ただの手伝い戦で大事な兵を失うわけにはいかんぞ!」
「それが貴様の本音か!そんなに戦が恐いなら帰れ!臆病者が!」
「無礼な!そこまで言うなら勝手にしろ!」
怒声、机を叩く音。
やがて――
孫策軍は陣を畳み、南へ退いた。
孫策軍に潜んでいた密偵は一連の動きを見逃さなかった。
「漢軍が逃げただと!」
報告を受けた去卑は哄笑した。
「好機だ!残った劉豹を叩け!裏切り者を草原から消せ!」
去卑は即断した。
自ら全軍を率いて、孫策が去り五千にまで減った劉豹の元へ攻めこんできた。
劉豹は懸命に戦ったが数が違いすぎた。
包囲される前に劉豹は撤退を決断。
「退け!」
全速力で撤退する劉豹を去卑が追撃にうつる。
東に川、西に草地。
劉豹軍を殲滅するため、去卑は軍を大きく広げて包囲を試みる。
「包め!逃がすな!」
草地側の兵が劉豹の背後に回ろうとさらに広がる。
――その時。
「……何だ?」
草地から異臭が漂った。
鼻を刺す甘く重い臭気、油の臭いであった。
次の瞬間、草地一面に焔が走った。
風に煽られ、丈高い草地が一気に燃え上がる。
焔は壁となり、悲鳴と嘶きを飲み込んでいく。
「火だ!?」
包囲は一瞬で断ち切られた。
焔と川に挟まれた去卑の顔から血の気が引いた。
その時――
劉豹軍の背後より軍鼓が鳴り響く。
孫策軍のものだった。
草原に誇りを問うための、烽火が上がったのだった。




