【第百十二話 】草原の血報
202年晩春 許昌
「殿――!」
城楼に響く声は緊迫したものであった。
孫堅が顔を上げると登ってきたのは楊弘であり、その背後には怒りに震える劉豹の姿があった。
「南匈奴にて――我が伯父・去卑が呼廚泉単于を毒殺。自ら単于を称しました」
その場の空気が凍りついた。
荀攸が息を呑み、楊弘は思わず舌打ちする。
「……兄を殺して、位を奪うか」
孫堅の声は低く、怒りを押し殺していた。
劉豹は一歩前へ出た。
「これは……匈奴の掟を、誇りを、すべて踏みにじる行いです」
その双眸に宿るのは怒りだけではなかった。
恥と、悲しみと、どうしようもない悔恨が宿っていた。
「孫堅様」
劉豹は膝をつく。
「私に帰国をお許しください。この手で去卑を討ち取ってみせます」
場が静まる。
それは孫堅にとっても軽くない選択であった。
遷都を目前に控え、天下の目は洛陽へ向かっている。
今、北へ兵を動かすことは政治的にも軍事的にも負担が大きい。
だが――
孫堅は迷わなかった。
「劉豹」
静かに名を呼ぶ。
「お前は我が戦友だ」
そしてはっきりと言い切った。
「戦友の恥は、我が恥。戦友の仇は、我が仇だ」
顔を上げた劉豹の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「孫堅様……」
「我らも共に征くぞ!」
孫堅は立ち上がる。
「草原へ。この乱れは我らで正す」
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軍議は即座に開かれた。
「総大将――孫策」
名を呼ばれた孫策が一歩前に出る。
「副将に周瑜、朱治」
周瑜は静かに礼をし、朱治は力強く頷いた。
「参軍、法正」
若き参謀が鋭い眼差しで地図を見つめている。
兵力は以下の通り定められた。
孫策直属・近衛兵 五千
張遼・魏延率いる騎馬隊 一万
蒋欽の影矢隊 五千
劉豹旗下の匈奴兵 五千
――総勢二万五千。
「相手は去卑率いる南匈奴三万」
法正が言う。
「数では劣りますが策で覆してみせましょう」
孫堅は孫策を見た。
「指揮は任せる。だが――」
一拍、置く。
「無理はするな」
孫策は微笑んだ。
「父上の背を見て育ちました。勇敢と無謀の違いは心得ております」
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夜、孫堅の私室
孫堅と孫策、父子で卓をはさんでいた。
「遷都令の直後にこのようなことが、まさか……」
孫策がぽつりと言う。
孫堅は静かに息子を見つめた。
「狼狽えるな」
燭台の炎を見つめながら続ける。
「朱治や周瑜とよく話し合うことが肝要だ。おまえには善き臣が着いている」
孫策は深く息を吸った。
「……必ず、勝って戻ります」
孫堅は孫策の肩を叩きその双眸を見つめた。
「お前の戦を――天下は見ている」
夜空の星が静かに瞬いていた。
草原へ向かう軍の運命を、見届けるかのように。




