【第百十三話】己の矜持
202年初夏 南匈奴
地平は果てしなく広がっていた。
遮るものの無い平野、その中央に両軍は互いに一線を隔てて陣を敷いていた。
南側に布陣するのは孫策率いる孫堅軍。
中央に孫策の近衛五千と蒋欽の影矢隊五千。
右翼に張遼率いる軽騎兵、左翼には劉豹の突騎兵がそれぞれ五千。
本陣の後ろに遊軍として魏延の重装騎兵五千が控えていた。
対する北側は去卑の率いる南匈奴の騎兵三万。
草原に慣れた軽騎兵が密集し、鬣を逆立てた馬が地を踏み鳴らしている。
その中央に去卑がいた。
豪奢な毛皮を纏い、悠然とした様を演じていたが、その目には焦燥が渦巻いていた。
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やがて劉豹が両軍の中央へ馬を進める。
「去卑!」
劉豹の声が草原に響く。
「これを読め。我が言葉だ」
矢文を去卑軍に射ちこむ。
去卑は鼻で笑い、部下に書を受け取らせた。
ざっと目を通すと、紙を握り潰し、叫ぶ。
「笑止!漢に尻尾を振る犬が、何を説く!」
去卑も馬を進めた。
「劉豹!お前は尊き匈奴の血を汚した。漢に屈し、奴らの軍門に下った臆病者だ!」
劉豹は一歩も引かなかった。
「俺は臆病者でもなければ屈服したわけでもない」
静かな声だった。
「匈奴はすでに漢と共にあるのだ。我らがこの草原の地でかつての繁栄を取り戻すための選択として祖父(羌渠)や父(於夫羅)、叔父(呼廚泉)が選んだ道だ。俺もその選択は正しいと考えている」
去卑が嘲笑する。
「言い訳だ。草原の民が城壁の中で生きるなど、己が誇りを捨てるに等しいわ!」
劉豹は嘲笑を受けてもなお、去卑を正面から見据えた。
「だがな、去卑。北には烏桓、鮮卑が勢いを増している。我らのみの力で抗うことは難しいぞ。生き残るために生き方を変えることは、誇りを失うこととは違う」
一瞬、風が止んだ。
「俺が守るべきは、民の命と匈奴の誇りだ」
劉豹の声が次第に強まる。
「呼廚泉単于を毒殺し、その毒にまみれた手で単于を名乗る――それが誇りある行いと言えるか!」
去卑の顔が歪む。
「黙れ!勝てば正義だ!どのような手段を使ってもな!」
「違う!」
劉豹は、はっきりと言い切った。
「己の力で勝つことこそ、我らの掟よ。掟を踏みにじる者に草原に立つ資格はない!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、去卑は狂ったように叫んだ。
「黙れ、小僧!全軍――突撃せよ!!」
去卑の後ろに控えていた若武者が去卑を制しようとする。
「父上、劉豹様の言い分を聞き、兵の士気が下がっております。ここは退くがよいかと。」
「だまれ!誥升爰!奴らが漢に阿るのが悪いのだ!皆のもの、漢に魂を売った裏切り者どもを、踏み潰せ!!」
三万の騎馬が一斉に動いた。
孫策はその様子を冷静に見据えていた。
「周瑜よ……これが我らのみでの初陣だな」
背後で周瑜が静かに頷く。
「すでに盤上は整っています」
劉豹は己の陣に戻る馬上で小さく呟いた。
「去卑……お前は最後まで誇りを見失った」
草原の論戦が終わり、苛烈な戦いの火蓋が切って下ろされた。




