【第百十一話】遷都の詔
202年晩春 許昌
夜明けの許昌は静かであった。
だがその静けさは、許昌全体が何か大きなものの到来を予感して息を潜めている――そんな気配であった。
城門をくぐる一行の先頭に孫堅はいた。
その傍らには荀攸、楊弘。
洛陽より戻った彼らの顔には長旅の疲れよりも、これから果たす大業への緊張が宿っていた。
「……許昌も長らくよく耐えてくれた」
孫堅は小さく呟いた。
洛陽が焼け落ち、帝が流浪しこの地にたどり着いてからの年月。
許昌は仮の都として漢の心臓として支えてきた。
それは誇るべき功であり、今――終わるべき時を迎えていた。
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孫堅が堂内に入ると帝は自ら一歩前に出て声をかけた。
「孫将軍。洛陽よりの長旅ご苦労であった」
穏やかな声であったが、その奥に抑えきれぬ期待が滲んでいた。
孫堅は深く頭を垂れた。
「陛下。洛陽の整備、つつがなく完了いたしました」
その言葉に、殿内が静まり返る。
献帝は目を見開き、やがてゆっくりと息を吐いた。
「……そうか。ついに、か」
玉座に腰を下ろし、帝は遠くを見るような目をした。
「朕が最後に洛陽を見たのは、まだ幼き頃であった。朱雀門、太学、南宮……すべてが、夢の中の景色のように思えていた」
孫堅は静かに言葉を継ぐ。
「司馬朗をはじめ、多くの者が力を尽くし復興にあたりました。荒れ地は耕され、宮殿は甦り、民は戻りつつあります。都として、再び陛下を迎え入れる器は整いました」
献帝の目に微かな涙が浮かんだ。
「朕は……また、戻れるのだな」
しばしの沈黙の後、献帝は顔を上げた。
「楊彪。そなたはどう思う」
呼ばれた老臣は、一歩進み出て深く一礼した。
「陛下。洛陽は漢の根幹。都が戻ることは、ただの移動ではなく正統の回復にございます」
一瞬、言葉を切り続ける。
「今、人と法と秩序が戻りつつあるならば――都もまた、洛陽へ戻るべき時かと存じます」
献帝は強く頷いた。
「よい」
そして、玉座から立ち上がる。
「詔を出す。都を、洛陽へ遷す」
その瞬間、堂内の空気が震えた。
(長く正統性が歪んでいた漢の歴史が、ようやく本来の軌道へ戻る)
誰もがそう感じていた。
詔が発布されるや許昌の街は一変した。
官吏は忙しく走り、倉が開かれ荷車が並ぶ。
民は噂を交わし、子どもたちは「洛陽」という名を口にしては目を輝かせた。
「都が戻るんだってさ」
「ほんとか? あの洛陽へ?」
期待と不安が入り混じりながらも、街は確かに沸き立っていた。
その様子を高楼から見下ろす孫堅に荀攸が声をかける。
「殿。漢はようやく正統な都を取り戻しましたな」
孫堅は静かに頷いた。
「だが、都が戻っても天下はまだ荒れている。これからが本当の始まりだ」
二人が静かに微笑んだその時――階下が騒がしくなった。
「急使だ!北より急報!」
伝令は息も整えぬまま、膝をついた。
「南匈奴にて異変。去卑が呼廚泉単于を毒殺し、自ら単于を称したとのこと!」
その言葉が周囲の空気を凍りつかせ、孫堅の目が鋭く細められた。
漢の都が戻ろうとする、その矢先に――北の草原では血が流れようとしていた。




