【第百九話】南荊州からの再起
200年晩夏 荊州
南荊州に割拠し、劉表の命に従わず、遠征軍を幾度も退けてきた張羨。
その張羨がわずか数ヶ月で滅んだ。
戦を主導したのは――曹操である。
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「……信じ難い話だ」
襄陽の市井では、商人も農夫も、同じ言葉を口にした。
「劉表様や蔡瑁様が三年かけて倒せなかった張羨を、曹操様はたった三ヶ月でだと?」
「しかも、最後は一兵も失わずにときた。あのお方はただものではないぞ」
武陵、零陵、桂陽の南方三郡を電撃的に制圧し、最後は長沙を血を流さず屈服させた。
その手際の良さは、兵の強さだけではなく、人と策を使う力、曹操の器の大きさとして人々の間で語られた。
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張羨討伐の報せは、当然荊州牧・劉表の耳にも届いた。
劉表は几帳の向こうで静かに溜息をつく。
「……蔡瑁の力を削ぐつもりが、逆に曹操の名を上げてしまったか」
蒯越が慎重に言葉を選ぶ。
「しかし、殿。この期に蔡瑁殿の勢力を南荊州に固めてしまえば、中央を我々で制することができましょう」
劉表は目を細めた。
「蒯越、お主の言うとおりだ。この際、蔡瑁も曹操も南へ追いやってしまうか」
劉表は南陽郡の代わりに武陵・零陵・桂陽・長沙、荊州南部四郡を蔡瑁の管轄とし、襄陽から遠ざけることとした。
蔡瑁の兵力を遠ざけ、中央での発言力を削ぐ、完全な排除ではないが、これ以上肥大化させぬための一手であった。
「曹操は……ひとまず、南荊州の守りとして使うとしよう。危険な闘犬も家の外であれば番犬として有用であろう」
劉表は静かにそう結論づけた。
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一方、当の曹操達は長沙郡臨湘城で劉表の使者と対面していた。
「武陵郡太守、曹操」
詔書を読み上げる声が響く。
「桂陽郡太守、張繍」
張繍は一歩進み、深く頭を下げた。
「……まさか、この地で太守の任を受けることになろうとは」
曹操は口元を緩める。
「生きておれば、運命とはいくらでも姿を変えるものだ」
そう言う張繍の背後では、賈詡が静かに目を伏せていた。
その目は曹操に対して、冷静で確かな評価を下していた。
(曹操……此度の戦、鮮やかな手並みと、人を用いる度量。ただの一群雄ではないな。我が殿とこの賈詡の才を託すに相応しい奸雄やもしれん)
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その夜。
曹操の陣では、小さな宴が設けられていた。
郭嘉、徐庶、そして――龐統。
張繍と賈詡も同席していた。
「龐統殿、此度の使者の任、見事であった。さすが龐徳公をして鳳雛と呼ばれる御仁であるな」
曹操は杯を置き、龐統に向き直った。
「もし叶うなら、我が覇道のために、参謀の一人としてその才を振るってもらいたい」
龐統は一瞬だけ目を細め、やがて肩をすくめる。
「……我が翼を休めるには相応な枝が見つかったようだ」
「私の器では不満かな?」
「いえ。ただ鳳雛が飛び立つには、風が必要なもので」
その言葉に郭嘉が笑った。
「風ならば殿の元には山ほど吹きますぞ」
徐庶は静かに頷く。
「鳳雛が加われば、我らの陣容は一段と深みを増しますな」
張繍が賈詡と共に曹操に向かい杯を掲げる。
「貴殿の戦での采配は見事であった。わしは今まで董卓公、叔父張済達と共に戦ってきた。皆、激しい戦をする将達であったが、此度のような鮮やかな采配は経験したことがない」
張繍の言葉に賈詡が続ける。
「我ら主従、勝ち馬に乗らせていただきたく存じます」
曹操は賈詡の言葉に満面の笑みを浮かべ杯を干した。
「そなたらの才を入れても壊れぬよう、我が器を鍛えねばならんな」
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玄鶴が舞い、鳳雛が羽ばたいた。
荊州の地で、かつて失ったもの以上の才に巡り合い、天下へ至る確かな足場を手にいれるのだった。
夏の終わり、星は静かに瞬いていた。
――第十章、ここに終幕。




