【第百八話】鳳雛飛翔
200年盛夏 南荊州
零陵、桂陽――
二つの郡が陥ちるまで、わずか二ヶ月。
戦と呼べるようなものはなく降伏が相次いだ結果であった。
曹操は両郡の要地を巡ると即座に手を打った。
「零陵は曹仁、桂陽は曹洪に任せる。各々五千とする。守りを固め民を慰撫せよ」
「御意」
二将は同時に拱手した。
零陵と桂陽は長沙を攻める上で、背後を支える要となる地――
ここを確実に抑えねば決戦はあり得なかった。
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盛夏の陽が長沙郡臨湘城の城壁を白く焼いていた。
蔡瑁の二万が正面を固め、曹操は一万を率いて南より陣を敷く。
そして西より、張繍が五千を率いて到着した。
三軍合わせ、三万五千。
だが、城は落ちなかった。
城内に籠もる張羨軍は、なお二万の兵を擁し、糧秣も十分であり士気も落ちてはいなかった。
幾度か攻め立てるも、損耗ばかりが積み重なっていった。
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蔡瑁の本陣には重苦しい空気が漂っていた。
「……やつらの守りがここまで堅いとはな」
蔡瑁は苛立ちを隠さず杯を卓に叩きつける。
郭嘉が静かに言う。
「張羨は己の退路が断たれたことを理解しております。塩鉄論曰く、窮鼠狸を噛むといいます。力攻めは被害が大きくなりましょう」
曹操は腕を組み、城を見据えたまま同意した。
「孫子も城攻めは十倍の兵を要すると言っている。力攻めではこちらの血が流れるだけだ」
その時――
幕外から呑気な声が聞こえてきた。
「……叔父の紹介で来てみたが、お困りならわしが働きましょうか?」
陣幕をくぐりながらそう告げた男は、粗末な衣に身を包みどこか飄々とした佇まいをしていた。
だが、その目は異様なほどに冴えていた。
徐庶が微笑みながら挨拶をする。
「いつもながら人を食ったような様ですな。龐統殿」
曹操は静かに男を見つめた。
「……鳳雛か」
龐統は軽く一礼した。
「降伏勧告の使者として参ろうか。もちろん命の保証は不要」
蔡瑁は唖然として口をパクパクとさせたが声はでず、曹操、郭嘉、徐庶は苦笑するのだった。
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龐統はただ一人で臨湘城の門をくぐった。
張羨は庁舎に武装した兵を並べ、使者として来た龐統を威圧するのだった。
「劉表の差し向けた舌か」
龐統は肩をすくめた。
「舌ではありませぬ。あえて言うなら心を映す鏡ですかな」
そして淡々と語った。
「武陵が落ち、区景殿を失い、沙摩柯も帰ってこぬ。さらに零陵、桂陽も失った。今や三万五千の兵が城を囲み援軍は来ない」
「……だからどうした」
張羨は睨み返す。
「戦えば死。されど降れば生。現状を映す鏡が示すはこの道理」
張羨は嘲るように笑った。
「笑止、仮におまえが言うとおりでも死を選ぶまでよ」
「父上、この城が落ちれば、民も家もすべて灰となるやもしれませぬぞ」
張羨の子――張懌が悲壮な顔つきで進み出た。
龐統は視線をそちらへ向け、静かに言った。
「張懌殿の言うとおり意地では未来は守れぬよ」
張懌の肩がわずかに震えた。
「父上、龐統殿のおっしゃるとおり、我らの意地のために民を巻き込むは義にもとる行為ですぞ」
張懌の言に苛立つ張羨が一喝する。
「黙れ!弱音を吐くな、張懌。貴様は下がっておれ!」
二人の口論を見て、含笑を浮かべた龐統は、それ以上語らず城を辞した。
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その夜――
臨湘城内で悲鳴が上がった。
張羨は寝所で刃の下に伏していた。
手に血を浴びて立っていたのは張懌であった。
「……父上。これ以上抗うならば、お一人でされるがよい」
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翌朝城門が開かれ、白旗を掲げた張懌自らが城を出て跪いた。
「劉表様の軍門にくだります。寛大な裁きをお願いしたい」
ことの顛末に蔡瑁は満足げであった。
曹操は背後に立つ男へと視線を向けた。
「……鳳雛。見事な一手だ」
龐統は薄く笑った。
「此度は羽根を整えただけに過ぎませぬ。これより先、我が才を十全に発揮する場に巡り会いたいものですな」
曹操は郭嘉と目を合わせ大笑し、雲一つ無い蒼穹を見上げるのだった。




