【第百七話】玄鶴初陣
200年初夏 荊州武陵郡・漢寿
武陵郡を貫く大河は、初夏の雨を含み、濁流となって流れていた。
その川沿いに、張羨配下の将・区景は一万の兵を並べ、堅固な陣を敷いていた。
水上には小舟を連ね、岸には盾兵と弓兵を密集させる。
川は天然の堀となり、陣は鉄壁であった。
「敵ながら見事な堅陣だな」
曹操は河岸に立ち、対岸の陣を睨んでいた。
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最初の攻撃は、正面からの強襲であった。
だが――
「舟が流される!隊列を保て!」
「矢が――揺れる船上では当たらんぞ!」
水軍の扱いに不慣れな曹操軍、張繍軍は、思うように攻勢をかけられない。
区景の水上兵は地の利を活かし、的確に矢を浴びせてくる。
二度、三度と攻めかけるも、戦果は乏しかった。
張繍が歯噛みする。
「……川というものは厄介だな。陸の戦と勝手が違う」
曹操もまた、腕を組み沈黙していた。
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そのとき、静かに一歩進み出た者がいた。
黒衣を纏った、物静かな男――徐庶である。
「殿。一計、具申いたします」
曹操が振り向いた。
「申せ、徐庶」
徐庶は地図の川沿いを指でなぞる。
「区景は川に頼り、正面の防備を厚くしております。ならば――このまま正面に囚われさせればよいのです」
郭嘉が目を細める。
「……偽撃か?」
「はい。さらに、転じて殺す策にございます」
徐庶の声は冷徹な響きを持っていた。
「正面から大攻勢をかけると同時に、これ見よがしに東へ別動隊を派遣してください。敵は必ず、東への迂回を警戒します。その裏で――」
徐庶は地図の西側を指した。
「密かに西へ、騎兵五千を回します。
夏侯淵殿、曹真殿に率いていただき、夜陰に紛れ川を渡らせるのです」
曹操の口元が、わずかに上がった。
「……敵の目を東に向け、背を断つ、か」
「はい。区景は水戦に自信を持っております。ゆえに、陸からの突撃には脆いでしょう」
曹操は一拍置き、力強く頷いた。
「よい。徐庶の策を用いる」
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翌日、川面は再び戦の音に満ちた。
正面から曹操軍が激しく攻め立て、さらに東方へ張繍率いる別動隊が大きく動くのが見えた。
区景は即座に判断する。
「東だ!東から回り込む気だ!兵を割け!」
張繍の別動隊は区景に的確に対応されたことで、渡河は叶わなかった。
区景は己の指揮に満足し、その日が暮れようとしていた。
その夜――
西方の林より、地を震わせる蹄の音が響いた。
「蹴散らせ――!」
夏侯淵、曹真、そして徐庶率いる五千の騎兵が、一気に川を渡り、夜陰に乗じて区景の陣へ突入した。
区景の陣が混乱に陥る中、正面から曹操軍本隊も渡河し区景を攻め立てた。
その混乱の中、異様な咆哮が上がった。
「我こそは沙摩柯!」
武陵蛮の勇士、沙摩柯が棍棒を振るい、曹操軍へ突進する。
曹操軍の前衛が沙摩柯の棍棒で蹴散らされる中、その前に立ちはだかったのは――
「許緒、参る!」
巨躯の猛将・許褚であった。
鉄棒と棍棒が激しくぶつかり合い、地が揺れる。
数合の後、許褚が一歩踏み込み、沙摩柯の腕を絡め取り――
「終わりだ!」
渾身の一撃で地に叩き伏せた。
沙摩柯は動けず、捕縛される。
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正面と背後から挟撃を受け、沙摩柯も失った区景軍は、もはや立て直せなかった。
「退け……!退け――!」
区景は敗走し、武陵の陣は崩れ去った。
川は静けさを取り戻し、武陵郡は、曹操・張繍連合の手に落ちた。
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戦後、曹操は張繍のもとへ赴いた。
「張繍殿。武陵郡の制圧と治安は、貴殿に任せたい」
張繍は深く頷く。
「承知した。ここは責任をもって固めよう」
曹操は南を見据えた。
「我らは零陵、桂陽へ進む」
徐庶が静かに言う。
「残りの二郡はまとまった兵はおらぬ様子です。苦もなく殿の手に落ちることでしょう」
郭嘉が微笑んだ。
「玄鶴殿、初陣を見事な飛翔で飾りましたな」
徐庶は小さく首を振る。
「まだ、産毛が抜けたばかりです」
曹操は、その背を見つめながら呟いた。
「……よい。ならば、この曹操がおまえに大空を教えてやろう」
こうして曹操軍は、さらに南へ――
零陵、桂陽を目指し、進軍を開始した。
荊州の潮流は、確実に曹操へと傾きつつあった。




