【第百六話】江陵に集う
200年初夏 荊州江陵
江陵城の城壁に、南風が吹き抜けていた。
曹操率いる二万、張繍軍一万、蔡瑁軍二万――総勢五万の軍勢が荊州南部へ向かおうと集い、戦気はすでに辺りを震わせている。
郭嘉は天幕を開き、軍議へ向かう曹操に並んだ。
「殿。蔡瑁殿がどのような策を持っておられるか……少しばかり興味がございます」
曹操は笑った。
「ほう、郭嘉ともあろう男をして“興味”とは珍しいな」
「ええ。蔡瑁殿の表情を見るに……どうも困っておられるようですので」
曹操は軍議の間へ足を踏み入れた。
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蔡瑁が机上の地図に手を置いていた。
自信家な彼には似つかわしくなく、その表情は険しかった。
だが曹操が姿を現すと、蔡瑁は立ち上がり作り笑いを浮かべ手を上げた。
「曹操殿、張繍殿。まずはご足労、かたじけない」
張繍は旅塵を払い入室してきた。
「蔡瑁殿。このたびの南征、急なご命令なのは何故であろう?」
「うむ……実はそのことで話さねばなるまい」
蔡瑁はふっと息を放ち、声を潜めた。
「――劉表様はわしを恐れておられるようなのだ」
曹操と張繍は目を細めた。
郭嘉は静かに頷く。
(やはりそういうことか……)
蔡瑁は続けた。
「わしの姉が劉表様の夫人であることはご承知の通り。それゆえ、劉表様はわしに全幅の信頼をおいてくださっていると思っていた。またこの荊州を守っているのはわしだという自負もあった。しかし、幸か不幸か貴殿達を迎えたことで、わしの力は劉表様を越えたのやもしれん」
「うむ」
曹操は黙って聞く。
蔡瑁は苦い笑みを浮かべる。
「劉表様は南荊州の張羨とわしを戦わせ、どちらも弱らせようとしておるのだ。互いが減れば、自らの身は安泰だからな」
張繍が腕を組む。
「主君が家臣を削るとは……情けない話よ」
だが曹操は静かに笑っていた。
「……蔡瑁殿は、劉表殿の意を汲んだ振りをして、自らの力を固めるつもりと見受けたが?」
蔡瑁は目を見開き、のち苦笑した。
「貴殿には隠せぬか……。もちろん、無意味に兵を失う気はない」
蔡瑁は広げた地図の南部を指差した。
「張羨は四万の兵を臨湘城に置いている。正面からぶつかれば、兵が多く失われよう。だからこそ、貴殿らの力が要るのだ」
曹操の眉が動く。
「ほう……どう使うつもりだ?」
「それを今より軍議にて決めたい」
蔡瑁は席に促し、軍議が始まった。
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「張羨軍は四万。長沙郡臨湘城に本陣を置いておる」
蔡瑁の説明に同僚である張允が顔をしかめる。
「臨湘城は要害……正面からの攻撃では損害は避けられぬな」
張繍も頷いた。
「正面突破は避けたいものだな……」
そのとき郭嘉が一歩進み出た。
その声音は静かだったが、場の全員の耳をすぐに奪った。
「蔡瑁殿。小生にひとつ案があります」
蔡瑁が眉を上げる。
「申せ」
郭嘉は地図に指を滑らせた。
「張羨軍の本陣は長沙。しかし西側には武陵、その南に零陵、桂陽……南荊州の三郡があります」
郭嘉は曹操・張繍の方へ視線を移す。
「もし――曹操様の二万、張繍殿の一万、この三万を武陵より回して零陵、桂陽の二郡を抜けば、そのまま長沙を挟撃できます」
張繍がほぅ、と息を漏らす。
曹操は眼を細め、笑みを浮かべた。
「良い策だな。三万で西方より回り込むか……兵の半ば以上を別動隊に割くは大胆だが、理があるな」
郭嘉は頷く。
「蔡瑁殿が本隊を引きつけてくだされば、張羨軍は後背の三郡を守るための兵に多数を割くことはかなわぬでしょう。さすれば三万の兵でも十分制圧出来ます」
張繍は腕を組み唸る。
「そして長沙を挟撃できれば、勝敗は決まりだな」
蔡瑁は長い沈黙ののち、ゆっくりと息を吐いた。
そして――あきらかに安堵した顔で言った。
「……採用しよう。郭嘉、お主の策、まことに理に叶う」
郭嘉は静かに一礼した。
蔡瑁は続ける。
「わしは自軍二万を率いて江陵より南下し、張羨の本陣を牽制する。曹操殿、張繍殿は三万を率いて武陵から侵攻し、零陵・桂陽を落としてくれ」
曹操は薄く笑い、立ち上がった。
「承知した。蔡瑁殿に拾われし恩を返せるなら、喜んで南へ回ろう」
張繍もまた拳を握り頷いた。
「良かろう。わが軍も共に南へ動く」
こうして五万の大軍は、荊州南部を覆うように動き出した。
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曹操軍の幕舎に戻ると郭嘉は満面の笑みで告げた。
「殿。蔡瑁殿は良き戦場を我らに与えてくれましたな」
曹操は笑みを深める。
「うむ。蔡瑁は兵を減らしたくない。ならば、わしらに三郡を斬らせるのが最善だ。だが――」
曹操の目が鋭く光る。
「南郡など問題ではない。余が欲するは……荊州の潮流そのものだ」
郭嘉もまた笑った。
「殿。潮流はこの戦で手に入れることとしましょう」
曹操の声が低く響く。
「よい。南へ出るぞ。玄鶴を得て、次は鳳雛……そして荊州を動かす。この先に目指すは天下の覇権よ」
夜風が天幕を揺らし、曹操の覇気を押し広げた。




