【第百五話】龐徳公の眼
200年晩春 荊州襄陽近郊
徐庶を得た曹操の胸には、なお燃えるような期待が渦巻いていた。
「玄鶴……そして、鳳雛。二つの才を得ずして、どうして天下を語れようか」
郭嘉が馬上で口元をゆるめる。
「殿、まるで宝探しに向かう少年のようでございますよ」
「そうであろうとも。宝と聞いて心動かぬやつなど漢にあらずだ」
劉廙は微笑みながら、襄陽の山を指差した。
「龐統殿は、幼き頃よりこのあたりをよく歩き回っておられたとのこと。今でもしばしば龐徳公先生の庵に顔を出しているはずです」
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山中深く、静寂を割って小川が流れ、木々の間から春の光がこぼれ落ちている。
そんな山奥にその庵はあった。
訪れを告げると、壮年の落ち着いた雰囲気を持った男が縁側に姿を現した。
「……曹操殿自らがお越しとは、いささか驚きましたぞ」
その声は芯のある、森の奥に響くような声音だった。
「私を御存知とは光栄です。貴殿が龐徳公殿でしょうか。突然の訪問、無礼をお許し願いたい。私は“鳳雛”と呼ばれる才人にお会いしたく、参った次第です」
曹操の直截な物言いに、龐徳公は細い目をさらに細める。
「鳳雛、か……。あれは、わしの甥・龐統のことよ。しかし――」
龐徳公はゆっくり首を振った。
「残念ながら、あやつは今この庵にはおらぬ。南方の友を訪ねに出ておる」
曹操はわずかに落胆する。
主に代わり郭嘉が一歩進み出て尋ねた。
「長き旅となりましょうか?」
龐徳公は苦笑しながら茶を淹れた。
「いや、あれは気まぐれでの。縁があるなら会える。縁がなければ会えまい。甥は、そういう性分よ」
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龐徳公は茶を曹操へ差し出し、じっとその顔を観察した。
「曹操殿。世に“乱世の奸雄”と呼ばれておるな。……確かに、その通りであるな」
曹操は笑って応じた。
「ほう、何故そう思われますか?」
「その性は激しいものを持っておられる様子。だが――」
龐徳公の目が、静かに鋭く光った。
「それを補って余りある器を持つ。あの徐庶が従ったのも納得よ。人を惹きつける輝き……それは、徳や清廉だけで生まれるものではない。時に、混じりけのある魂の方が、人を動かす」
郭嘉が息を呑む。
(さすが荊州一と言われるだけの御仁……一目で見抜くとはただ者ではない)
龐徳公は続けて言った。
「曹操殿。甥の不在を詫びる。あやつが戻れば必ず伝えよう。“曹操殿に会え。天下に覇する器を、その目で見よ”とな」
曹操は深く頭を下げた。
「感謝いたす。いずれ、鳳雛と相まみえる日を楽しみにしております。此度は龐徳公殿にお会いできて良い時をすごせました」
「ふむ……わしも天下の奸雄殿にお会いでき眼福であったわ」
龐徳公は笑いながら曹操を見送るのだった。
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帰路、郭嘉が馬を寄せてきた。
「殿。鳳雛には会えませんでしたが……龐徳公殿の人物を見る眼、あれは相当なものですな」
「ああ。あの男が甥を“鳳雛”と評するならば、間違いなく大器よ」
劉廙は胸に手を当てる。
「龐統殿は一風変わった方ですが、龐徳公、水鏡先生と並ぶ人物です。あの方を得れば、かならずや殿の力となりましょう」
曹操は静かに、しかし強くうなずいた。
「玄鶴に続き、鳳雛も必ず得る」
だが――
新野に戻った曹操を迎えたのは、意外な急報だった。
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新野城、執務室
郭嘉が文を差し出した。
「殿……これは蔡瑁殿よりの出陣命令です」
曹操は目を細め、ひらりと文を開く。
そこには端的にこう記されていた。
“此度南荊州の張羨征伐の命あり。早急に援軍として出立すべし”
夏侯惇が小さく唸る。
「これはまた、急な出兵要請ですな」
郭嘉も頷く。
「殿が玄鶴殿を得たことで時機が動き出したのやもしれませぬ」
曹操は不敵に笑った。
「面白い。ならばその時機に応じてやるまでよ。人の和を得、天の時にのれば、おのずと地の利を得る事ができよう」
劉廙が恭しく頭を垂れた。
「殿の御心のままに」
曹操は天を仰ぐ。
玄鶴を得た。
鳳雛は遠からず現れる。
そして今、荊州情勢が揺らぎ始めた。
「郭嘉。出陣の準備を整えよ。蔡瑁の思惑を越えて……わしは前へ進む」
「御意」
春風が新野の城壁を鳴らす。
曹操の覇道は、またひとつ大きな節目へと向かって動き出した。




