表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
104/114

【第百三話】隠者との邂逅

200年仲春 荊州南郡 山中


激流はなお白く泡立ち、落ちた馬の嘶きも、曹操の呻き声もかき消していた。

濁流は容赦なく曹操の身体を呑み込み、岩に叩きつけた。

その指は、何かを掴もうとするようにわずかに動き続けていたが、ついに力尽き、意識は闇に沈んでいった。

その身は流され、やがて川幅の広い場所で、ゆっくりと岸辺へ(ただよ)い着く。



---


麦わらを背負った一人の農夫が、川辺で網を干していた。

「……ん?こりゃ、人か!」

慌てて駆け寄り、曹操の体を引き上げる。

「息がある……!こいつぁ急がにゃならん!」

農夫は濡れ鼠の曹操を背負い、険しい山道を登り始めた。


農夫の向かうその先には、ひっそりとした一つの(いおり)があった。

人里離れた、小さな、しかしどこか気韻(きいん)に満ちた庵であった。



---


農夫が庵の戸を叩くと、落ち着いた声が返ってきた。

「どうされたかな?」

戸が開き、細い目をした年齢不詳の書生風の男が立っていた。


「先生、川から流されてきた男だ。息はあるがひどい怪我で……」

「よいかな。運び込んでやりなさい」

男は静かに指示し、曹操を寝床へ横たえさせた。

脈を取り、濡れた衣を脱がせ、傷を確かめ、薬湯を煎じる。

「傷はありますが、脈は問題ない。これならば命は繋がりましょう」

男の声は柔らかかった。



---


夜。

薬草の香りが漂う薄闇の中、曹操はふと目を開く。

「ここは……?」

「目を覚ましたかな」

男は炉の火を静かにかき混ぜていた。


曹操は身体を起こそうとしたが男が手を上げ止めた。

「無理をせぬ方がよい。谷に落ち、川に揉まれた身だ」

「助けていただいたのか。感謝いたす。……御尊名を伺っても?」

「よいかな、よいかな。人を助けるのに名乗りは要らぬよ」


曹操は礼を述べ、互いに名乗ることなく対座した。

男の目は細いながらも深く、すべてを射抜くようであり、曹操は思わず息を呑む。

(ただ者ではない……この男、目の輝きが凡人のそれではない……)

男もまた曹操を一瞥し、胸の奥で小さく呟いた。

(川に流され衰弱してなおこの覇気……覇者たる器の持ち主やもしれんな……)



---


薪が弾ける音だけが響く庵の中、曹操は静かに口を開いた。

「独り言と思い聞き流してください……」

男は(かまど)に薪をくべながら頷く。


「私は戦に敗れこの地に流れてきました。一度はこのまま静かに暮らすことも考えました……。しかし、私を信じてついてきてくれる者がいた。その者達の熱き想いを受け、私の中の覇を求める想いが込み上げてきました」


「よいかな、よいかな。私も独り言だよ」

男は微笑みながら火を見つめていた。

「この荊州は沃野千里。南北の要衝、東西の分岐。そして……人材の宝の山よ」

「人材……?」

「そうとも。もし天下に覇を唱えんと、立ち上がる覚悟があるならば――」

男の声が、笛の音のように心地よく響いた。


「小は玄鶴を、大は鳳雛を得るがよい」


曹操の眉が動く。


「玄鶴を得れば、戦は(たなごころ)の内となろう。鳳雛を得れば、天下に覇を競うことが出来よう」

庵の煙がふわりと揺れた。


曹操は一つ大きく息を吐き、頭を垂れた。

「その……お二方のお名前を教えていただきたい」

しかし、男は穏やかな笑みを浮かべた。

()かずとも、よいかな、よいかな」


曹操がなお問いただそうとした、その時――庵の外から馬の気配がした。


「殿ーっ!!」

曹真の声だった。

曹操が庵の外へ出ると、曹休も駆けつけ、庵の前にひざまずく。

「殿!ご無事で何より……!」


曹操は男へ振り返り、深く礼をした。

「名を知らぬ御仁……我が命を救ってくれたこと、また教えを賜ったこと。この御恩は忘れませぬ」


「ふふ……風の行くまま、縁の至るままよ。行きなされ。まだ汝が成すべきことは途上にある」

曹操はうなずき、去り際にもう一度だけ振り返った。

男は炉の火の前で、ただ静かに微笑んでいた。



---


川の霧は薄く晴れ、月光が曹操の背を照らしていた。

その胸には、二つの名――

いや、まだ名ではない二つの存在が、静かに刻まれていた。


玄鶴。

鳳雛。


荊州の地に眠る二つの才。

その出会いが、天下への飛躍を(たす)けること――このときまだ、曹操は知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ