【第百三話】隠者との邂逅
200年仲春 荊州南郡 山中
激流はなお白く泡立ち、落ちた馬の嘶きも、曹操の呻き声もかき消していた。
濁流は容赦なく曹操の身体を呑み込み、岩に叩きつけた。
その指は、何かを掴もうとするようにわずかに動き続けていたが、ついに力尽き、意識は闇に沈んでいった。
その身は流され、やがて川幅の広い場所で、ゆっくりと岸辺へ漂い着く。
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麦わらを背負った一人の農夫が、川辺で網を干していた。
「……ん?こりゃ、人か!」
慌てて駆け寄り、曹操の体を引き上げる。
「息がある……!こいつぁ急がにゃならん!」
農夫は濡れ鼠の曹操を背負い、険しい山道を登り始めた。
農夫の向かうその先には、ひっそりとした一つの庵があった。
人里離れた、小さな、しかしどこか気韻に満ちた庵であった。
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農夫が庵の戸を叩くと、落ち着いた声が返ってきた。
「どうされたかな?」
戸が開き、細い目をした年齢不詳の書生風の男が立っていた。
「先生、川から流されてきた男だ。息はあるがひどい怪我で……」
「よいかな。運び込んでやりなさい」
男は静かに指示し、曹操を寝床へ横たえさせた。
脈を取り、濡れた衣を脱がせ、傷を確かめ、薬湯を煎じる。
「傷はありますが、脈は問題ない。これならば命は繋がりましょう」
男の声は柔らかかった。
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夜。
薬草の香りが漂う薄闇の中、曹操はふと目を開く。
「ここは……?」
「目を覚ましたかな」
男は炉の火を静かにかき混ぜていた。
曹操は身体を起こそうとしたが男が手を上げ止めた。
「無理をせぬ方がよい。谷に落ち、川に揉まれた身だ」
「助けていただいたのか。感謝いたす。……御尊名を伺っても?」
「よいかな、よいかな。人を助けるのに名乗りは要らぬよ」
曹操は礼を述べ、互いに名乗ることなく対座した。
男の目は細いながらも深く、すべてを射抜くようであり、曹操は思わず息を呑む。
(ただ者ではない……この男、目の輝きが凡人のそれではない……)
男もまた曹操を一瞥し、胸の奥で小さく呟いた。
(川に流され衰弱してなおこの覇気……覇者たる器の持ち主やもしれんな……)
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薪が弾ける音だけが響く庵の中、曹操は静かに口を開いた。
「独り言と思い聞き流してください……」
男は竈に薪をくべながら頷く。
「私は戦に敗れこの地に流れてきました。一度はこのまま静かに暮らすことも考えました……。しかし、私を信じてついてきてくれる者がいた。その者達の熱き想いを受け、私の中の覇を求める想いが込み上げてきました」
「よいかな、よいかな。私も独り言だよ」
男は微笑みながら火を見つめていた。
「この荊州は沃野千里。南北の要衝、東西の分岐。そして……人材の宝の山よ」
「人材……?」
「そうとも。もし天下に覇を唱えんと、立ち上がる覚悟があるならば――」
男の声が、笛の音のように心地よく響いた。
「小は玄鶴を、大は鳳雛を得るがよい」
曹操の眉が動く。
「玄鶴を得れば、戦は掌の内となろう。鳳雛を得れば、天下に覇を競うことが出来よう」
庵の煙がふわりと揺れた。
曹操は一つ大きく息を吐き、頭を垂れた。
「その……お二方のお名前を教えていただきたい」
しかし、男は穏やかな笑みを浮かべた。
「急かずとも、よいかな、よいかな」
曹操がなお問いただそうとした、その時――庵の外から馬の気配がした。
「殿ーっ!!」
曹真の声だった。
曹操が庵の外へ出ると、曹休も駆けつけ、庵の前にひざまずく。
「殿!ご無事で何より……!」
曹操は男へ振り返り、深く礼をした。
「名を知らぬ御仁……我が命を救ってくれたこと、また教えを賜ったこと。この御恩は忘れませぬ」
「ふふ……風の行くまま、縁の至るままよ。行きなされ。まだ汝が成すべきことは途上にある」
曹操はうなずき、去り際にもう一度だけ振り返った。
男は炉の火の前で、ただ静かに微笑んでいた。
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川の霧は薄く晴れ、月光が曹操の背を照らしていた。
その胸には、二つの名――
いや、まだ名ではない二つの存在が、静かに刻まれていた。
玄鶴。
鳳雛。
荊州の地に眠る二つの才。
その出会いが、天下への飛躍を輔けること――このときまだ、曹操は知らなかった。




