【第百二話】虎退治
200年仲春 荊州新野
春の薄靄はまだ残り、城内には昨夜の雨の香りがわずかに漂っていた。
新たに仕えた劉廙を前に、曹操は静かに問うていた。
「劉廙。前の貴殿の話の中にあった師とはどなたであろう?わしも郭嘉もこの地に来て日が浅く、荊州の賢人に疎いのだ。出来ればお会いして高説を賜りたい。また、貴殿と同じく志高く、有能な学友が野にいるなら迎えたいと考えているのだ」
劉廙は一礼し、口を開きかけた。
「私の師は――」
その時、扉の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が開き夏侯惇が入室、深く頭を下げた。
「お話し中に申し訳ありません、劉廙殿。危急のことにて」
劉廙は驚いたが姿勢を正す。
「いえ、軍務であれば致し方ありません」
夏侯惇は曹操を振り向く。
「殿、新野の南――南郡との境にある蔡陽近くで、大虎が出没。付近の村々より、虎退治の嘆願が届いております。」
庁内の空気が変わった。
「虎か」
曹操は低く呟き、劉廙へ視線を戻した。
「話の続きは虎退治ののちに聞かせてくれ。」
「御意」
曹操の言葉に郭嘉が一歩進み出る。
「殿、御自ら赴くことはありません。虎退治ごときは将の勤めであり、天下の器が身を晒す必要は――」
曹操はかすかに笑んだ。
「郭嘉よ。わしが最後に矛を振るったのはいつだ?」
「……」
郭嘉は黙していた。
曹操は静かに右手を握った。
「この半年ばかり戦場に身をおくことはなく、髀肉がだぶついておるわ。武人としてのカンが鈍らぬように此度はわし自ら討伐に出る」
郭嘉は嘆息した。
「殿がそう言われるなら、もはや止めません……ですが、くれぐれも無理はなさらぬように」
曹操はうなずき、夏侯惇に命じる。
「夏侯惇、郭嘉と共に城を頼む。」
「はっ」
「曹洪・曹純・曹真・曹休、そして許褚、牛金。共に来い。」
「応ッ!」
猛将たちが一斉に拱手した。
こうして虎退治の一行は新野を出立した。
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南郡との境に広がる森は深く、昼なお薄暗かった。
茂みを踏みしめる音だけが続く。
やがて、鋭い風を裂く音――。
「来るぞ!」
曹洪の叫びと同時に、大虎が大樹の影より飛び出してきた。
その体躯は人の二倍はあろう。
縞は濃く、牙は槍の穂先のように鋭かった。
「散開!囲め!」
牛金が即座に兵を指揮する。
巧みな統率で兵が左右から回り込み、虎の逃げ道を塞ぐ。
虎は吼え、爪で兵の盾を叩き割った。
負傷するものがでたが、牛金の指揮のもと周囲の兵が矢を射かける。
大虎は針ネズミのようになり、次第に動きが鈍くなった。
「牛金殿、今です!」
叫びを受け、牛金が槍を構える。
「はあッ!」
鋭い一撃が虎の胸を貫いた。
虎は地を揺らすように倒れ伏し、森は静まり返る。
兵たちが歓声をあげた。
「大した虎だったな!」
「新野に平穏が戻るぞ!」
兵達が虎の屍に集まり、興奮の声を上げていた。
死骸を運ぶために持ち上げようとするが、なかなか持ち上がらない。
見かねた曹操が近習の許緒に命じた。
「許緒、おまえの大力を新野の兵達にも見せてやれ」
「お任せあれ!」
許緒が笑いながら大虎の元に向かった。
その一瞬――曹操の周囲の護衛が薄くなった。
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風が、変わった。
――ガアァァァッ!!!
曹操の背後の森奥より、さらに巨きな虎が飛び出した。
その視線はただまっすぐ、曹操一人に向けられていた。
そして曹操が振り向いた時、虎の巨躯が空にまった。
「殿ッ!!」
気配に気付いた曹真が振り向き様に、馬上より弓を一瞬で引き絞る。
放たれた矢はまるで一条の光のように虎の眼を貫いた。
虎は咆哮しながら落下したが、その爪が曹操の馬の尻を裂いた。
「ぐっ――!」
暴れ狂う馬に曹操は振り落とされまいと手綱を必死に握る。
しかし、猛り狂う馬は暴走し、
「危ないッ!!」
曹洪の叫びも届かず、馬は森の斜面を駆け下り――
その先は、深い谷。
「とのーーー!!」
馬が足を滑らせ、曹操ごと崖下へ落ちていき、そのまま激流へ呑み込まれた。




