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【第百一話】始まりの士

200年仲春 荊州新野


春の朝霧が新野を覆っていた。

空は曇り、雲間から漏れる光は淡く、遠景の山々は白布をかけたように眠っている。

その冷えた空気の中、一人の青年が霧のむこうより城門へと近づいてきた。


名を劉廙りゅうよく

面立ちは静かで、衣は質素――しかし、その歩みには己の才への矜持が漂っていた。


門前に立つ兵が問う。

「何用あって来られたか」

劉廙は手を胸に当て、姿勢正しく答えた。

「曹操将軍に拝謁を望みます。荊州南陽郡・劉廙(りゅうよく)、仕官を請う者です」


新しき風が今、新野に舞い込もうとしていた。



---


曹操は幕中にて郭嘉と地図を眺めていた。

衛士よりの仕官の報告を聞き、静かに眉を上げた。

「当地の名士は先頃調べたが、劉廙(りゅうよく)という名は見当たらなかったが……」


郭嘉も首をかしげた。


ほどなくして、劉廙が幕内に入ってきた。

彼は深々と拱手し、姿勢を正した。

「曹操将軍。劉廙、拝し奉ります。乱世の只中、民の嘆きを見過ごせず、此度仕官を願い、参りました。」


曹操は彼を見据えたまま問いかける。

「荊州は大地豊かであり、州牧劉表殿は文士を手厚く遇している。何ゆえ、州牧ではなく一城主の私の元へ参られたのかな?」


劉廙の瞳に、一瞬、揺れる光があった。

「――私は南陽郡の出身にして、荊州の地で学を得ました。しかし、兄、劉望之(りゅうぼうし)を劉表に殺され、揚州へ避難しておりました。劉表には恨みこそあれ、仕える気は毛頭ありません」


「私はその劉表の臣である蔡瑁に仕える身。貴殿の恨み多き劉表に連なるものではあるが、その点はよいのかな?」


「亡き兄も私も師の元で徳を尊び、世の安寧のために働くことを志しておりました。だが、今の乱世においては、乱を断ち切る者の元でなければ、この才は生かされぬと考えております」


郭嘉が(かす)かに目を細めた。

曹操は視線を外さぬまま、静かに問う。

「――私が乱を断ち切る者か?」


劉廙は一拍の後、頭を垂れた。

「師曰く、『英雄とは、時代を己が手で動かす者を指す』と。 私は将軍にその覇気を感じます。敗北よりなお強く立たんとするその姿、すでに噂となっております」


一時(ひととき)の静寂が落ちた。

曹操は手を膝に置き立ち上がる。

「よかろう。我が幕下に入るがよい。政事を任せる器か、まずは新野の民政より預けよう」


劉廙が深く頭を垂れた。

「必ずや新野の地を実り多く民が安寧に暮らせる地へとしてみせます」


幕内の空気が変わり、郭嘉が微笑む。

「……ようこそ、乱世の渦の中へ。」

劉廙は頭を上げ、瞳に決意の色を宿らせた。

「――今より、乱世の端を担いましょう。」


その声は静かであったが、不思議と幕の外まで透き通り、花びら混じりの風に乗って、新野の町へと溶けていく。


この日、曹操は初めて荊州名士を配下に迎えた。

それは後の曹操政権の行政基盤を支える礎となる、一粒の種であった。

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