【第百話】再起の地
<第十章> 奸雄再び
200年初春 荊州新野
時は遡り袁紹と孫堅の官渡の戦い前夜、袁紹が檄文を天下に発した頃……。
袁紹からの檄文を一笑に付した曹操は、北の地で起きるであろう大戦を予感しつつも、己の再起を期していた。
まだ寒い北風が吹くなか、曹操は新野近郊の丘に登り、眼下で訓練をする兵達を眺め、ひとり瞳を細めた。
敗残の烙印は重く、その痛手もまだ癒えてはいない。
しかし、その躰に宿る覇気はいささかも衰えてはおらず、むしろその瞳に新たな光を灯しているかのようであった。
背後より夏侯惇が近づいてきた。
「孟徳、新兵の訓練はぬかり無いぞ。……まだ数は足りぬが、その中に年若くとも目を見張る者がいたので連れて来た」
「ほう?」
曹操は振り向き眼を見張る。
夏侯惇の背後よりひとりの若武者が進み出た。
濃い眉、鋭い眼差しを持った偉丈夫であった。
「牛金と申します。殿のために微才ではありますが力を尽くす所存にございます」
曹操はしばし彼を見つめ、やがて口許をわずかに緩めた。
「……面白い。我が軍は于禁や楽進ら、歴戦の勇を失いはしたが、新たな勇将を得た。今求むるは、ただ武のみにあらず、荒廃の中でなお心折れぬ者。よく見出した」
夏侯惇は胸を張ったが、曹操は振り返り訓練する兵を眺めたまま静かに言葉を続けた。
「だが、我らに不足するものは将だけではない。兵に物資、そして――この荊州を治むる才よ」
少し離れた場所に、郭嘉が袖を揺らしながら歩みを進めてきた。
「殿、その御言葉、まことにご尤も。我が軍、武官は多かれども内政を担う文士が乏しくございます。荊州は沃野にして民豊かなる地。なれど、治政を疎かにすれば、地の利は十全には得られません」
曹操は黙ってうなずいた。
敗北からまだわずか数ヶ月――軍の再建はすすんでいたが、内治ははかばかしくは進んでいなかった。
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その夜、曹操は帳中にて地図を広げていた。
机上には荊州北部の郡県が描かれ、長江がその南を横断し、さらにその南には南荊州四郡――武陵、零陵、桂陽、長沙――が連なる。
郭嘉が燭台の火越しに地図に視線を落とし、その指で新野の位置を示す。
「この地にて兵を募り、時機をうかがう――容易な道ではありませぬ。ですが、殿ならばこそ、荊州に新たな秩序を築けましょう」
「……齢五十を前に卵より孵る時を待つとはな。だが、新たに飛翔するため、今は翼を隠す時ぞ」
曹操は、中原に紅の駒、東方に翠の駒がのる地図の「荊州」の地に蒼の駒をそっと置いた。
「郭嘉、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、聞け。余はこの地を再起の礎とし、再び天下を望むぞ!」
五人は静かにうなずく。
最初に口を開いたのは夏侯惇であった。
「殿、もはや敗北は十分ですな。次こそは――」
「うむ。再び旗を掲げた先には天下をこの手に」
その言葉は小さく放たれたに過ぎなかったが、帳を打つ風はどこまでも広がっていくのであった。
――この地こそ、覇道の芽吹く地。
天幕の外では冬の星々が弾けるように瞬いていた。




