第二百五十話
◇◇◇フローネ◇◇◇
宴席とは言っても、並ぶのは塩辛い魚と強いだけの酒。
帝国産の葡萄酒など望むべくもなく、フローネは漁場全体に漂う辛気臭さと魚臭さに辟易しながら、日が暮れるのを待っていた。
生気のない様子で働いていた獣人たちは、太陽が傾き始める頃には自分たちのねぐらに戻っていて、漁場は随分閑散としていた。
ヴォーデンでは珍しい光景ではなく、フローネが何年この属州で暮らしても、慣れることのないもののうちのひとつだ。
ゾノフスはフローネが丹精込めて盛り立てたおかげで、ずいぶん賑やかになった。
とはいえそのゾノフスでさえ、帝都の輝きを知っているフローネからしたら、何段も見劣りのする田舎町にすぎない。
父の失脚に思うところはないし、隠し財産を守り通して帝都の官憲の目から逃れられたのは幸運だと思うし、この辺境を選んだのも選択肢としては間違っていなかったと今でも思う。
ルザード王はいかにもこんな土地に相応しい粗野な男だったが、生まれたアマクは可愛い息子だ。
今の生活も不満があるかと言えば、ない。
ないのだが、漁場に立つフローネの胸中はずっともやもやしていた。
もちろん原因は、あの突如として現れた、ジレーヌ領の大宰相とやらのせいだ。
フローネが資金繰りを手伝ったルベールたちが、頼信たちにあっさり負けたことは、そういうものだと割り切っている。
商いはうまくいくこともあれば、失敗することもあるのだから。
それにルベールをそこまで信用していたわけではない。
魔石鉱山の話に目が眩んでいたし、ロランのことを見くびり過ぎだった。
金儲けに勤しんでいる商都だから、そこにいる貴族たちも惰弱だろうなんていうのは、都合のいい妄想に過ぎない。
金のあるところには、必ず戦力だってあるのだ。
この世に買えぬものなどないということを、フローネは帝都で暮らしていたからよく知っている。
だが、その原則に照らすと、あの頼信とかいう大宰相をどう評価すべきなのか、フローネにはわからなくなる。
ルベールは粗野で権力欲にまみれた下衆だとはいえ、魔法使いとしての腕は一流だ。
フローネが用意した冒険者たちだって、話した感じで馬鹿じゃないのはすぐにわかった。巡り合わせさえよければ、もっと華々しい土地で活躍できていたことだろう。
つまりそんな彼らをなんの苦も無く返り討ちにした頼信たちは、見た目以上の戦力を備えていることになる。
アマクの話を聞いても、そう思った。
ルベールたちはまさに手も足も出なかったというし、フローネが最も驚いたのは、アマク側に誰一人として死者が出なかったらしいことだ。
それは敵を気遣う余裕があるくらい、実力差があることを示している。
おまけに頼信たちは捕虜たちの身代金を要求せず、兵糧まで返すつもりらしい。
彼らが清貧の誓いを立てた聖職者ならまだしも、そんな感じではもちろんない。
身に着けている衣服の質はまあまあ良かったし、荷ほどきした際に見た食料類はどれも高品質だった。
連れている獣人たちだって、あり得ないほどに健康的で、あれだけ食わせるには相当な食費がかかるはず。
つまり連中は、宮廷魔術師と第四王子という人質からとれる身代金など、物の数に入らないほどに裕福だということになる。
ジレーヌ領については、ゾノフスにいる商人たちから話を聞き集め、魔石鉱山のある土地だというのはわかっている。
それから、州都ロランの大船団を返り討ちにしたという話も。
ならば貧しい領地ではなかろうとは想像がつく。
しかし、だ。
ジレーヌ領の話など、フローネは今まで耳にしたことがなかった。
そこが昔から裕福な土地なのであれば、もう少し話題に上ったはずではないか。
奴隷獣人をロランに売りつけに赴く奴隷商たちの話でも、ジレーヌ領の名前は急にアズリア属州で広まっているようだった。
となると、ジレーヌ領はある日突然、変貌を遂げたことになる。
凄まじい体躯の獣人たちにたっぷり飯を食わせることができ、腕利きの冒険者たちなど敵にならないほどの戦力を有し、しかも戦費のことなどまったく気にかけず、戦利品をがめつく求める必要すらない経済力を一夜にして手に入れたことになる。
そんなことがどうして可能なのかと自問すれば、フローネは即座に視線を向ける人物がいる。
ただ一人、周囲の連中とは違う空気を身にまとい、得体のしれない物腰の大宰相だ。
帝都でも、大きな政変の裏側には、どこからともなく現れた怪しげな人物がいるのが常だったが、頼信もまたその手の人物なのだろうか?
フローネはその考えを、すぐに否定した。
そういう奴らは権力者の考えを誘導するだけで、領地を豊かにはしない。
金というのは、無慈悲なほど公平な存在だとフローネは信じている。
金を生み出すには、絶対に、足掻かなければならないのだから。
玉座に座っているだけで金箱を届けられるように見える王たちでさえ、その玉座に座り続けるためには、裏でどれほど血の汗をかいているかわかったものではない。
誰だってその席に座りたがるから、そこを守るのも大変なのだ。
それを額に汗した労働だと言うのは、さしものフローネでさえ憚られるが、役割に従って足掻かなければならないという意味では同じこと。
神のお告げを権力者に囁くだけで、大飯食らいの獣人たちの食費を生み出せることは、決してない。
そのためには働き、商いをし、カネを生み出さなければならない。
大宰相がその意味で、商人らしいというのは、間違いない。
フローネの食堂に掲げてある自慢の地図の凄さに感心したのは、後にも先にも、頼信ただ一人だ。
おまけに新しい鉄の製錬計画を進めているらしく、道具を生産し、生産を増やし、属州を大きく跨ぐような大交易圏の構想を描いていた。
領主の耳元で囁いて、権力欲をくすぐるだけの姦商では決してない。
フローネが悔しくなるほどの、大商人だった。
あれほどの規模で物事を考えられるのは、帝都の大商人たちの中でも数えるほどだろう。
フローネが食堂に地図を掲げていることがそもそも、そういう大商人たちが地図一杯に思索を巡らせていることを知って、真似しているのだから。
頼信とやらは、それを最初から、ごく当たり前のように行えている。
ジレーヌ領で地図が手に入りにくいと、困ったように笑っていた。
それとも頼信は、帝都のどこかの大商会の子息なのだろうか?
しかしタカハシ家など聞いたこともないし、名前の語感からしても、フローネにはどこの地方の家なのか見当もつかない。
彼が連れているクルルや、飢えた番犬のように目を光らせているヨークンならば、その来歴は大体予想がつく。
だが、ヨリノブ・タカハシだけは、わからない。
わからないが、そのせいで、フローネの胸はざわつくのだ。
なぜなら商いの基本とは、未知のものに対する憧憬だから。
珍奇で珍しい代物だから、人は我を忘れて大枚をはたく。
ではあまりにも異質な存在である頼信というのは、いったいどれほどの商品価値を持つのだろうか?
食堂に掲げられたヴォーデン属州中の名産品に目を輝かせ、呆れるほど巨大な交易の話を晩飯の献立のように滔々と語り、ついでに奴隷制度も廃止したいなんて素っ頓狂なことを平気で言えるだけの蛮勇さを持ち合わせた、珍品中の珍品だ。
だからフローネは、頼信がこの漁場の男たちから魚の売り込みを受けても、大して興味を持っていないことに驚きはしなかった。
樽一杯の魚を、帝国銀貨で二枚で買うか、三枚で買うかなど、あの男にはさしたる問題ではないだろう。
なんなら途中から表情は作り笑いになっていたし、男たちとの会話が終わってからフローネに話しかけてきた内容も、まるで今から自分の漁場を作って好き勝手にやりたいと言わんばかりのものだった。
フローネの胸がざわつくのは、そこだった。
父の失脚から隠し財産を守り通して辺境に逃げ、王を垂らし込んで嫡子を生んで、割り当てられた領地をヴォーデンでも有数の領地に仕立て上げた。
賑やかで活気に満ちたゾノフスを見れば、もちろんフローネは誇りに思う。
でも、それだけだ。
そこから先に進むにはどうしたらいいか、フローネには分からなかった。
ここが自分の限界なのか? 長い旅路の終点なのか?
寒風に震えながら領地の経営計画を練り、強いだけでまずい酒を男連中に負けじと飲んで、様々な利害関係をまとめ上げてきた。
その結果築き上げたゾノフスの町の中で、フローネは次の手掛かりを失っていた。
熱すぎる場所も、冷たすぎる場所もなく、低すぎる谷も、高すぎる山もなかった。
どこに行ってなにをしようと、それは同じ桶のぬるま湯をかき混ぜるだけ。
ゾノフスを出るべきか?
そんな気持ちがあったから、ルベールの目論見に乗っかったのだ。
あの男には、少なくとも野心があったから。
だが、その計画は実らなかった。
その代わり、簀巻きにされたルベールを連れてきた男は、ルベールなどものの数にも入らないような誇大妄想狂だった。
その考えの大きさもさることながら、背後にある理屈が、フローネにはわからなかった。
けれど得体が知れないからこそ、そこには不安以上に、期待と好奇心があった。
まだうら若き乙女だった頃、祖父の時代からの忠臣たちとともにこの土地を目指した、あの時のように。
フローネはそんなことを思い、潮風に目を細めて苦笑した。
日はいつの間にかずいぶん水平線に近づいていて、赤い光が目に痛い。
人間様たちがくつろぐ小屋の煙突からは、煮炊きの煙がたなびいている。
酒はまずいが、少なくとも魚だけはうまい。
海魚は新鮮であれば、川魚の何倍もうまい。
ゾノフスでも寒い季節なら、まあまあ新鮮な海魚を食べられるが、基本的には干したものか、濃い塩水に漬けられたものだ。
馬鹿舌の男たちが馬鹿みたいに塩を振っていなければいいがと思い、潮風が冷たくなってきていたので、辟易するがフローネも小屋の中に戻ろうかという頃のこと。
フローネの目が、点になった。
今まさに向かおうとしていた小屋の屋根が、冗談みたいにすっ飛んだのだから。
◆◆◆
「ん、なっ」
言葉を失うフローネの前で、ばらばらに砕けた屋根が、音もなく浜辺に散らばっていった。
魔法だろう、とはすぐにわかった。
誰が使ったのかも、大体予想はつく。
魔石は高価で、漁場の男たちが用意できるような代物ではない。
それに、立ち尽くすフローネの視界の先で、屋根の吹き飛んだ小屋から魚商人たちが転がるようにして這い出てきていた。
なにが起こっているかまったくわからない。
わからないが、フローネの心臓は痛いほど高鳴り始めていた。
なぜなら、混乱ほど儲かる商いの種はないのだから。
フローネはふらつくように一歩踏み出し、二歩目を出し、三歩目が砂浜を踏みしめる頃には、走り出していた。
そして命からがら小屋から出てきた零細の商人たちと入れ違いに、小屋の中に飛び込んだ。
そこにいたのは、ジレーヌ領からやってきた連中と、そいつらの前で鼠のように身を縮めている、哀れな漁場の男たち。
「なにを……してるんだ?」
フローネの問いは、頼信たちをここに連れてきた責任を持つ、ゾノフスの権力者としての一言でもあった。
「なにって、決まってるだろ」
わざとぼろく作られた外套を身にまとい、その裾から可愛らしい猫の尻尾を覗かせた少女が、手元から紫色の煙を上げながら言った。
「この土地の流儀ってやつに従っているのさ」
その瞬間、フローネはルザード王と初めて出会った時のことを思い出した。
いや、思い出したというのは正しくない。
ルザード王が、自分のことを一目見るなり四番目の妻にした時、あの時の王の目には、こんなふうに自分が映っていたに違いないとフローネは思ったのだ。
不敵に笑い、自らの力を信じてやまない少女。
フローネは、大きく息を吸った。
笑顔が歪んでしまうのは、そんな少女の脇で、黒幕だと思っていた頼信が立ち尽くしていたからだ。
フローネに気がつくと、助けを求めるように口をパクパクさせていた。
魔法使いの少女の後ろでは筋骨隆々の獣人たちが牙を剥き、戦慣れした様子のヨークンが、にやにやしながら魔石を手の中で弄んでいる。
そこでの頼信は、大宰相様と言うよりも悪い小僧たちにこき使われる使い走りにしか見えなかった。
頼信を過剰に評価していたのかと思いつつも、今のフローネはそれどころではない。
楽しいことが始まるぞという確信に、年甲斐もなく胸が高鳴っていたのだから。
「この土地の流儀だって?」
フローネはそう言って、緊張が興奮に代わっていくにつれて、強張っていた顔がにんまりとした笑顔になるのを感じていた。
「なら、私も役に立てるはずだよ。あんたらをここに案内したのは私なんだ。次に行きたい場所だって、道案内できるはずさ」
ものすごい儲けの匂いがするし、ここは絶対に食らいつくべき。
けれど頼信とやらは、フローネがこの蛮行を止めてくれると、わずかながら期待していたらしい。
フローネの笑顔に肩を落とし、それを見た猫耳の少女が楽しそうに笑う。
「で、なにをするつもりなんだい?」
ヨークンからも肩を叩かれた頼信は、顔を覆った両手の隙間から、フローネを恨めしそうに見ていたのだった。




