第二百四十八話
◇◇◇頼信◇◇◇
この世界は、簡単に変えられる。
漁場は馬鹿げているほどの非効率で、惰性と無知と偏見でがんじがらめになっている。
そもそも、獣人たちの健康状態が悪すぎる。
もっとまともな食事をさせ、力を取り戻した彼らが網を引けば、一体どれだけ多くの魚を獲れることか。
それに道具の手入れもあまりに杜撰で、せっせと繕われている網はどう見たってもう買い替え時だ。
おそらく網を買い替えるための一時的に大きな出費ばかりに目がいって、新品の網で魚をたくさん獲れるようになればすぐに元を取れると考えないのだ。
ここにジレーヌ領で編まれた頑丈で大きな網を持ち込んだとしたらどうなるか。
きっとすぐに三倍、いや五倍の漁獲高になってもおかしくなく、網の代金など一瞬で取り戻せるだろう。
おまけにこの漁場の作業工程のずさんさだ。
加工速度と積み出し量を考えていないから、少なくない魚が、水揚げされたらされっぱなしで、砂浜に並べられて腐るに任されている。
それから売買される魚の種類が、妙に限定されていた。
魚の大きさとか、数が揃わないとかもあるのだろうが、どうやら文化的な理由のほうが幅を利かせているらしかった。
たとえばクルルが怯んでいたヒラメみたいな低地魚類や、イカやタコのような軟体動物はそもそも食用にされていないらしい。
雑多な小魚の類も、小骨が多いとかで貧しい者たちが食べる魚と分類され、まともに商品として扱われていない。
ヴォーデンは土地が痩せていて、魚は重要な食料源だというが、飢饉でもない限りは慣れ親しんでいたり扱いやすい魚しか売買されないのだ。
それが文化や習慣なのだといえばそれまでなのだが、この手の無駄をなくすだけで、出荷される魚の量は激増するはずだった。
というか、無駄になっている魚を獣人たちに食事として提供するだけでいいのに、そういうことすらしないのだ。
獣人たちに対しては、決められた種類の魚が、決められた数だけ配給されるらしい。
波打ち際で海鳥に食べられたり、腐るに任されている魚を有効活用すれば、それだけでどれだけ栄養状況が改善し、ここの作業の能率が上がるかとかは、まったく考えない。
フローネにその点を尋ねたら、不思議そうな顔をされた。
この漁場は領主ザーボロの持ち物であり、すべての魚もまたザーボロの持ち物である。
だから好き勝手に食べていいものではない。
それに魚商人たちは金を支払って買い付けに来るのだから、その横で奴隷たちがタダで魚を食べるのはおかしいだろう、と言われてしまった。
正しいとは思えないのに、うまく反論するのも難しかった。
そもそも、それを正しくないと主張したところで、ここはそういう常識、そういうルールで運用されていて、自分はよそ者にすぎない。
だから信じがたい非効率を前に、そういうものだと思うしかない。
だが、この漁場の男たちが、少しでも得をしようと魚を高く売りつけるための口上をべらべらまくしたてるのを聞いていたら、だんだん腹が立ってきた。
この漁場には非効率が溢れかえり、いくらでも改善できることがある。
つまり銅貨数枚分の交渉を延々とする暇があるのなら、もっとやるべきことがいくらでもあることになる。
だから自分は、この世界に来てから久しく使っていなかったとある日本語を、ずっと胸中で叫んでいた。
前の世界でも、実は世界的に結構珍しい概念だったというから、ここではなおのこと理解されないかもしれない。
もったいない。
なんともったいないことか!
フローネは漁場の陰鬱な様子を前に遠い目をして感傷に浸っていたが、自分からすると戦うことすらせずに敗北を受け入れているようにしか見えなかった。
ここは可能性の塊なのだ。
そしておそらくどこの漁場もこんな具合であろうから、頭を掻きむしりたくなるくらい、もったいなかった。
男たちは漁場の素晴らしさを語り、大袈裟な調子でヴォーデン随一と事あるごとに言うが、本当にヴォーデン随一の漁場にすることなど、造作もないはずだ。
当たり前の改善を、当たり前にするだけでいい。
圧倒的な効率が出て、周囲の漁場をどんどん傘下に収められるはず。
ジレーヌ領に送るための魚だって、きっと食べきれない量を水揚げできるだろうし、複数の漁場をひとまとめにできれば加工の効率だって跳ね上がる。
ここに健吾という実務の天才を加えれば、魔法のような規模の拡大ができるはずだった。
最後にそう言い終えた時、隣で辛抱強くこちらの愚痴に耳を傾けてくれていたクルルは、傾けていた猫の耳をぴっぴっと払った。
「じゃあ手始めに、ここを買い取るようにフローネに言うか?」
その言葉に、身振り手振りを交えながら説明していた自分は、非効率という名の蛇の首を絞めていた手を不意に緩めた。
「それが、手っ取り早いと言えば、そうなのですが……」
「?」
自分たちはここではよそ者だし、そもそもの話を思い出すべきだった。
「奴隷の皆さんを解放する手段が、見つかっていません」
この土地で労働力を確保しようと思えば、それは奴隷にならざるを得ない。
ジレーヌ領から自由身分の獣人たちを送り込むというのも非現実的だった。
けれど人間の手では到底効率など出せないから、この計画は絵に描いた餅。
そこに、クルルが不思議そうにそう言った。
「獣人たちを買って、働かせて、すごい利益を出せるんだろ? 元が取れたら、解放していけばいいじゃないか。それを繰り返せば――」
クルルは肩をすくめて見せる。
「ここから奴隷を無くすことができる。お前の言った話だろう?」
クルルが不思議そうな顔をしているのは、まさに自分がジレーヌ領で語ったことだから。
けれどフローネの口を通じてこの地の現況を知り、ずっと考えていた自分は即座に言った。
「無理だと思います」
「なぜだ?」
「なぜなら、奴隷は商品だからです」
クルルはちょっと気圧されたように顎を引いた。
「クルルさんの主張は、もちろん、ジレーヌ領で自分の語ったことです。それは狭い範囲なら成立すると思います。自分たちが漁場で儲ければ、働く彼らを自由の身にしていけますから」
「……じゃあ、それを繰り返せばいいだろ。次々に漁場を手に入れていけばいい」
こうして、時間はかかるだろうが、最後には奴隷はいなくなる。
ような気がする。
「ですが、奴隷は商品なんです。たくさん買われたら、価格が上がっていくはずですから」
「な……に?」
「高炉の実験で、燃料となる木材の話をした時と同じことですよ。売れたら新しく補充されてきます。しかも売れるんですから、価格も上がっていくはずです」
「だが、それ以上に儲ければいいだろう?」
いつもはクルルにやり込められてばかりだが、この手の話ではそうではない。
それに自分も、この問題点には最初から気がついていた。
だからこそ、今回ばかりは武力を使おうと言い出したのだった。
価格が上がって新たな奴隷が供給されてしまうのを、武力によって止めさせるつもりだった。
ルザード王家を震え上がらせ、属州全体の奴隷商にお触れを出させる。そんな算段だ。
けれどヴォーデン属州の政治状況から、それは事実上不可能だと判明した。
ルザード王家にそんな権威はないのだから。
では、経済的な解決法のみに舵を切ったらどうか?
それをずっと考えていたが、どう考えても袋小路だった。
なぜなら、経済には、物理法則みたいな頑固なルールがあるのだから。
「価格が上がるということは、供給が増えるということです。今までは手を出さなかったような遠くの土地から、今までなら躊躇っていたような方法を使って捕まえてきても、元が取れるようになりますから。自分たちの漁場は大儲けすればするほど、奴隷に出せる金額は大きくなるでしょうが、それは言うなれば、どんな費用をかけて奴隷を連れてきても、奴隷商たちは儲かるということなんです」
クルルの顔が、強張っていた。
経済原理というものは、どこまでも公平であり、公正なのだ。
それが商品である限り、木炭だろうと獣人奴隷だろうと、あらゆるものを、その原理の下に従わせる。
「自分たちが漁場を買い、その儲けで奴隷の人たちを解放しても、それは全体的な問題の解決にはなりません。むしろ奴隷制度をますます強化するだけです。漁場を増やし、拡大していけばなおのことです。なぜなら、労働力として必要な奴隷の数が増えますから、売買が活発化します。ですから」
自分は、大きく息を吐いた。
「ですから、根本的に奴隷制度をなくすには、制度として廃止したり、権力者たちの考えを変えていくしかないと言ったんです」
けれどその困難さは、今まで調べてきた通り。
統一権力がないから各部族を説得しなければならないが、ひとつの属州全体でそんなことをやるには、自分たちにはマンパワーが足りな過ぎる。
しかも大っぴらに武力を振り回していたら、絶対に帝国中央に目を付けられる。
加えて奴隷獣人は様々な人々に所有される財産であり、なんの補償もなく廃止することは社会全体の経済に大打撃を与えてしまうということもあったうえ、獣人は奴隷としてあるべきと考えるような、文化面からの抵抗のほうも同じくらい厄介だった。
このパズルを解く鍵が、どうしても見つけられない。
小さな箱庭的な解決法でよければ、クルルの語った方法でも構わない。
奴隷を買い、高効率の事業で儲けて逐次解放し、それを繰り返していく。
だが、数が減った商品の価格は上がり、価格が上がると供給が増えてしまう。
そして価格が上がるというのは、次に奴隷を解放するためのコストが上がるということでもあるから、つまりこの方法では漁場の儲けが出なくなるまで奴隷の価格が上がったところで、詰みとなる。
安い奴隷と高利率の漁場運営という組み合わせだからこそ、富が生まれ、その富によって奴隷を解放することができる。
ここには、あの話と同じ構造が見え隠れする。
すなわち、熱力学第二法則だ。
エネルギーから仕事を取り出すには、そこに「差」がなければならない。
熱いモノと冷たいモノがあるから対流が起こり、高みにあるモノを下に下ろすから位置エネルギーが利用できる。
富もまたエネルギーと同じで、「差」を必要とするのだ。
誰かが必要とするモノを相手に届け続ければ、やがて相手は必要としなくなる。
価格の高いモノを売って安いモノを買い続ければ、いつか価格は平衡する。
経済原理が強力なのは、その根底の奥底にこの構造があるからだった。
創意工夫によってその最後の日を遅らせることはできるが、根本的な解決法はない。
エントロピー増大則から逃れる術がないように。
そして、その時だった。
「イーリア様は、本当にあれで油断ならない人だ」
クルルが嫌そうに、呟いたのだった。




