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第二百四十七話

 それまでまったく生命感なく働いていた獣人たちも、さすがに無関心ではいられなかったらしい。


 自分たちが簡易の柵を越えて漁場の作業場に入ると、ある者は手を止め、ある者は足を止めてこちらを見やった。


 人間の叱責が飛び、再び作業に戻りはしたが、関心が向いているのは耳や目の動きから明らかだ。


「水揚げされる魚は、この季節だと主に鱈ですな。夏の頃は鰯が、秋から春にかけては鰊が押し寄せてきて、船を出すまでもなく浜が魚で埋め尽くされます。ありったけの籠と樽に詰める様は壮観ですとも」


 彼の語る魚の名前は現地の単語だが、見た目から大体この訳語であっているはずだ。


 クルルが魚に興味深そうにしているのは料理が好きだからだろうが、猫耳のせいでやけに可愛く見えてしまう。おまけに布団みたいな巨大さのヒラメにでくわして、外套の下で尻尾の毛を逆立てていた。


 低地魚類は、こっちの世界でも見た目がちょっとグロテスクだ。


「船は大体、あのくらいの大きさのものが?」


 指差したのは、砂浜に雑然と並ぶ木組みの小さな船。

 ジレーヌ領でさえ見ないような安普請のものばかり。


「小さいとお思いか? しかし船はどちらかというと、沖合に網を運ぶ程度ですからな」

「ああ、引き網漁ですか」


 小学校の林間学校を思い出す。

 眠くて目が明かない早朝に砂浜に送り出され、死ぬほど重い網を引かされてなんの拷問かと思ったが、魚が上がってくるとたちまち大興奮した。

 ただ、その相槌には、フローネがちょっと驚いていた。


 この世界の貴族様は、漁のやり方になど興味を示さないのだろう。


「沖合には漁に出ないのですか?」

「そうせずとも十分獲れますからな。ただ、鯨が出た時には、総出で立ち向かいます。ザーボロ伯爵もご覧になられる、賑やかなお祭り騒ぎです」


 多分、鯨、の訳語であっているはず。

 この世界の海洋哺乳類はどんなだろうと、わくわくする。


「いかがですかな。望めば望むだけの魚を、樽に詰めて御覧に入れましょう」


 居丈高なようでいて、事あるごとに買い付けを勧めてくる。

 漁場は領主の所有物かもしれないが、既定の金額を上納すれば、残りはすべてこの男たちの儲けになるような形式なのかもしれない。


 さもなくば、ろくに監視されていないから、余禄を得ようとしているだけか。


 いずれにせよ、確かなことがある。

 ここには山ほどの魚がいる。


 それから――。


「いかがですかな。ザーボロ伯爵は心の広いお方であられる。遠国よりわざわざ買い付けに来たと知れば、いくばくかの交渉にも応じてくだされよう」


 彼らの、恩着せがましい売り文句。


 曖昧に笑ったのは、売りたくて仕方ないのに決して低姿勢にはならないという、彼らのある意味での誇り高さに対してではない。


 目の前の、漁場の日常に対してだ。


 そこでは丸々太った大きな魚が、えらとはらわたを取られ、軽く海水で洗ってから樽に詰められていく。


 波打ち際では商品にならないのだろう小魚が漂い、海鳥がせっせと漁っている。


 よくみれば、加工が追い付かないのか、引き取り手がいないのか、砂浜に置かれたままの大きな魚でも、海鳥がついばむままに放置されているものがたくさんある。


 そしてそんな足元のことなどまったく見えていないかのように、幽霊のように黙々と働く獣人たち。

 彼らの手足には枷がつけられ、当たり前だがひどく錆びついていて、枷も手足も血のように赤くなっている。


 そんな獣人たちを背景に、漁場の男たちが軽薄な売り口上を述べ、フローネがまた現地の商人よろしくあれこれと返答をしている。


 頭上では無数の海鳥が舞い、魚の血で染まった波が、何度も足元に押し寄せる。


 目を閉じたのは、空からこの漁場を見下ろす鳥を想像してみたから。


 だだっ広い砂浜で、ほんの手の中に納まるような小さな漁場。


 鼻から息を吸うと、塩辛く、鉄くさい腐臭が胸に満ちる。


 フローネは、この世界を変えられるかと言った。


 鈍色で、なにもかもが錆びついていて、今日も明日も明後日も、延々と同じ波がうちつけるだけのこの世界を。


 なんの展望も、なんの希望もなく、ただ風化し、摩耗していくだけの日々を。


 自分は、曖昧な笑顔のまま、もう一度大きく息を吸った。


 この世界を変えられるか?


 この重苦しく、陰鬱で――。


 そして、非効率で、無秩序な世界を。


 自分の答えは、イエスとかノーではない。




 ただ率直な、怒りだった。




 ◇◇◇クルル◇◇◇


 最初に嗅ぎつけたのは、ゼゼクか、それともバダダムの鼻か。

 なんにせよ、クルルもすぐに気がついた。


 頼信が怒っていた。


 漁場の男たちと、フローネを交え、魚の値段を聞きながら、いつものへらへらとした笑みを顔に張り付けている頼信が、明らかに怒っていた。


 クルルは尻尾の先端を強く曲げ、周囲を見張っているゼゼクとバダダムに視線を向ける。

 彼らはもちろん態度に出すようなへまはしないが、軽い目配せで、なにが起こっているのかと互いに探り合っていた。


 そして最後に、クルルを見てくる。


 なぜ頼信が急に怒り出したのか、誰にもわからないのだ。


 漁場は石臼で運命を引き潰すかのような陰鬱さだが、かといって、見張りの人間が哀れな獣人を鞭で打ち据えたわけでもない。


 おそらく変わらぬ日常がそこにあり、永遠に変わらない日常が続けられている。

 確かに魚を売り込もうとする男たちの口調と態度は鬱陶しいし、奴隷たちの扱いだってろくなものではない。


 でも、それならここを訪れた時点で怒っていたのではないか。


 それとも魚の値段の話になり、予想より高すぎたのだろうか?


 クルルはバダダムたちに、軽く首を横に振ってみせる。


 それを見て、前衛たちの緊張に気がついていたヨークンは、懐の魔石に当てていた手を下ろしこそしたが、いつでも戦いに移れるように構えている。


 頼信は表情こそ相変わらずの曖昧な笑みだが、陽炎のような怒りの匂いを漂わせ、魚の買い付けを巡る話を続けている。


 クルルは気がつけば、拳を握りしめ、呼吸が早くなっていた。


 落ち着けと自分に言い聞かせ、硬くなっていた拳を緩めた。


 けれど、クルルの尻尾は、別の生き物であるかのように、右に左にと揺れている。


 なぜなら、頼信が怒っているからだ。

 クルルが喉の奥で唸るのに、それ以上の理由などいらないのだ。


 やがて男たちがわざとらしく笑い、フローネや、頼信と握手を交わしていた。


 魚の買い付けを巡る話がまとまったわけではないようだが、少なくとも険悪な雰囲気ではない。

 漁場の男たちも、遠方からの客に対し宴の準備をするようだ。


 頼信はフローネと軽く話し、そのフローネは漁場の外で指示を待っている者たちの所に向かった。


 ひとり残された頼信はしばらくその場に立ち尽くし、じっと足元を見つめていた。


 ゼゼクやバダダムはもちろん、ヨークンも声をかけようとしない。


 頼信がこんなふうに考え込むのはままあることだが、怒っているというのは滅多にあることではない。

 それに、クルルにもまったく見当がつかなかった。


 頼信というのは、面と向かって馬鹿にされ、虚仮にされても、いつも困ったように笑っているような奴だった。

 クルルなどは、もっと怒ったらどうだと思うほど。


 その頼信が、怒っているのだ。


 そして不意に顔を上げたせいで、何事にも動じなさそうなゼゼクでさえ、やや体をこわばらせている。


 そこにいるのは、この世界の誰とも違う理屈で動く一人の男だった。


 次になにを言い出すのか、クルルでさえ予測できないことが多い。


 クルルは小さく深呼吸をして、皆が遠巻きにしている大宰相の前に歩み寄る。


「どうしたんだ一体」


 努めて軽い口調のクルルの問いに、頼信はようやくクルルのことを見た。


 そして、こう言った。


「ここは、非効率すぎます」


 フローネは、頼信の得体が知れなくて困ると言った。

 同意するよ、領主様。


 クルルは胸中でそう言ってから、「なに?」と聞き返したのだった。

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― 新着の感想 ―
いや、緩慢に滅びて行くだけの世界に抗う事もせず自らの不幸に寄り添うように生きている人たちを見て、それを替えようとして諦めた人を見て、過去から積み上げらた不幸(あるいは恐怖とか悪意)の慣性力に抵抗できな…
非効率、そうか。 捨てる程の魚に浴して売れる大物だけを奴隷に詰めさせ単に数だけ稼ぐ。 片や他の都市は溢れるほどの魚にありつけない。 そもそも市場すらない漁港ってなんだ?売れるかもしれない魚にいつまで経…
あ、そういうことか。 理解しました 、、、ワカル。
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