第8話 流れの先
岩熊が森の奥へ消えてからも、レイはしばらく動かなかった。
追いかける必要はない。
今見るべきものは、足元にある。
開いた保守口の中で、調整弁の針がじわじわと塔側へ戻っていく。レイが正常な向きへ直したばかりだというのに、見えない力に引かれるように。
「……やっぱりだ」
レイは膝をつき、工具鞄から圧力計を取り出した。
フィアは弓を下ろしたものの、まだ森の奥を警戒している。
ロウも岩熊が去った方角から目を離していなかった。
「戻っては来ないと思う」
ロウが言った。
「冬の匂いを嗅いだ途端、山へ帰った。あいつの身体も、ずっと冬を待ってたんだろうな」
フィアは霜の残った草を見下ろした。
「人間だけじゃなかったんだね」
畑も。
虫も。
家畜も。
森の獣も。
季節が一つ狂うだけで、全部が少しずつおかしくなる。
レイは圧力計を保守口へ繋いだ。
針が跳ねる。
「強いな」
「何が分かるんです?」
フィアが隣へしゃがむ。
「塔側の圧力が高い。ここの弁が勝手に戻ってるんじゃない。向こうから引っ張られてる」
「つまり、塔が冬を吸ってるです?」
「そう考えるのが一番自然だ」
レイは調整弁をもう一度正常位置へ戻した。
今度は手を離さず、そのまま待つ。
数秒後。
ぐっ。
掌へ抵抗が返ってきた。
「……結構な力だな」
ゆっくりと弁が押し戻される。
機械の故障ではない。
流れそのものが逆なのだ。
フィアはその様子を見て、立ち上がった。
「他の場所も見ましょう!」
今度はレイが顔を上げる。
「場所分かるのか?」
「季脈の保守口は知りません。でも、この森なら分かります。昔から地面に変な鉄蓋がある場所、何ヶ所か覚えてるので」
「それを先に言え」
「今まで季脈のものだと思ってなかったんです!」
もっともだった。
フィアはすぐに森の中を歩き始める。
「こっち。水車道沿いにもう1つあったはずです」
ロウが苦笑した。
「俺は熊の跡を見てくる。村の近くへ戻らんようなら、そのまま山へ追う」
「一人で大丈夫?」
「熊相手なら、お前よりはな」
「むっ」
「さっき矢を外しただろ」
「外してない! 前脚に当てた!」
「狙ったのは肩だ」
「……見てたの?」
「猟師だからな」
フィアが悔しそうに口を尖らせる。
レイは少し離れたところから二人を見た。
「フィア、行くぞ」
「あ、待ってください!」
今度はレイが先に歩いた。
◆
二つ目の保守口は、倒木の根元に半分埋もれていた。
フィアが覚えていなければ、レイなら普通に通り過ぎていただろう。
「これです」
「よく覚えてたな」
「子供の頃、ここに足引っ掛けて転んだので」
「なるほど。いい記憶だ」
「痛かった記憶です!」
土を払う。
鉄蓋には王立環暦局の古い刻印が残っていた。
間違いない。
レイが開けると、中には一つ目とほぼ同じ調整弁が収まっている。
圧力計を繋ぐ。
「……同じだ」
冬だけが塔へ向かっている。
春、夏、秋は正常。
冬だけ。
フィアは何も言わず、レイの手元を見ていた。
「もう1ヶ所ある」
立ち上がったフィアが森の南を指した。
「昔、山菜採りに行く途中にも見ました」
「行こう」
三つ目。
結果は同じだった。
そこでレイは地面へ図面を広げた。
第四十一季塔。
リュネ村。
北西の森。
3ヶ所の保守口。
炭筆で位置を書き込んでいく。
本来なら季塔から外へ広がるはずの冬の季脈が、すべて逆向きに流れている。
一本だけなら故障で済んだ。
3本なら話が変わる。
「偶然じゃないですね」
フィアが言った。
「ああ」
「誰かが全部の弁を触った?」
「その可能性は低い」
レイは最初の保守口を思い出す。
弁は自動で戻った。
「人が一つずつ逆向きにしたわけじゃない。塔側で圧力を掛けて、まとめて吸ってる」
フィアは図面を見下ろしながら、少し考えた。
「じゃあ、この辺の冬は全部同じ場所へ集まってる」
「そうなる」
「塔の下」
「ああ」
レイは炭筆で塔の位置を丸く囲んだ。
十三番目の季音も地下。
逆流する冬の行き先も地下。
図面にない空間も、塔の西側から下へ続いている可能性がある。
別々に見えていたものが、ようやく一つの場所へ集まり始めた。
「戻るぞ」
「村に?」
「まず塔だ」
レイは図面を畳んだ。
「今まで、塔が冬を作れてるかしか見てなかった」
「作った後を見る?」
「ああ」
作る。
送る。
届く。
その3つは、同じではない。
第四十一季塔は冬を作っている。
なら、問題はその先だ。
◆
昼前。
季塔へ戻る途中、フィアは村へ寄った。
レイはそのまま塔へ行くつもりだったが、バルガスへの報告を後回しにすると面倒なことになる、とフィアに止められた。
実際、家へ戻った瞬間。
「熊が出たって!?」
バルガスの声が飛んできた。
「出た」
「怪我は!」
「ないよ」
「本当に?」
「レイさんが食べられかけたくらい」
「フィア」
「食べられかけた!?」
「言い方が悪い」
バルガスが杖を突いて立ち上がる。
「環暦士さん」
「無傷です」
「先にそれを言ってくれ」
「朝も似たようなこと言われた気がします」
「なら覚えろ!」
もっともだった。
フィアが横で笑っている。
「笑うな。原因の半分はお前だ」
「私はちゃんと帰ってきたよ?」
「そういう問題じゃない」
バルガスは大きく息を吐き、椅子へ座り直した。
「それで、熊は?」
「山へ戻りました。ロウさんが追ってます」
「追い払ったのか?」
フィアがレイを見る。
「レイさんが冬を出したら帰った」
バルガスが止まった。
「……冬を?」
「少しだけです」
レイは机を借り、森で書き込んだ図面を広げた。
「季塔は冬を作れています。ただ、村へ送る途中で流れが逆になってる」
バルガスの眉間に皺が寄る。
「分かるように言ってくれ」
「水路で考えてください。山から村へ水が流れてくるはずなのに、途中から全部山へ戻ってる」
「誰かが水を持っていってるってことか」
「近いです」
「どこへ?」
レイは塔の位置を指で叩いた。
「第四十一季塔の地下です」
バルガスは図面を見つめた。
しばらく黙る。
そして。
「地下……」
その声に、レイは引っ掛かりを覚えた。
「何か知ってます?」
「いや」
バルガスは顎髭を撫でる。
「ただ、昔の話を思い出した」
フィアも椅子を寄せた。
「昔の話?」
「俺がガキの頃だ。塔の裏手には近づくなって、爺さんに言われてた」
「なんで?」
「地面が抜けるからだ」
レイが顔を上げる。
「地面が?」
「ああ。今は埋まってるが、昔は塔の北側に深い溝があった。雨水を逃がすための排水路だって聞いてた」
「どこです?」
「塔の裏手。森との境あたりだ」
レイは立ち上がった。
「行きます」
「今から?」
「今です」
バルガスが呆れた顔をする。
「飯は?」
「後で」
「レイさん」
フィアが低い声で呼んだ。
振り向く。
机の上に昼食が置かれていた。
「食べてから」
「……はい」
なぜか逆らえなかった。
バルガスが小さく笑う。
「環暦士さん」
「何です?」
「うちの娘、案外強いだろ」
「最近分かってきました」
「ちょっと! 何の話!?」
◆
昼食を済ませ、二人は再び季塔へ向かった。
今度は正面入口には入らない。
塔の北側。
草の伸びた斜面を回り込む。
「この辺、あんまり来ないんですよね」
フィアが先を歩きながら枝を払う。
「村の人も?」
「季塔に用がある人自体少ないですし、裏は何もないから」
確かに何もない。
石壁。
雑草。
低い木。
ところどころ地面から古い石材が覗いているだけだ。
レイは歩きながら〈季音〉へ意識を向ける。
春。
夏。
秋。
冬。
その下。
十三番目。
「……こっちだ」
フィアより先に進路を変える。
「分かるんです?」
「ああ。冬の流れが近い」
音が強くなっている。
地面の下を、冷たい川が流れているようだった。
10メートルほど進んだところで、レイは足を止める。
「ここ」
「何もないですよ」
「掘ればある」
「急に怖いこと言いますね」
フィアが足元の草を蹴る。
すると。
土の下から硬い音がした。
カン。
二人で顔を見合わせる。
フィアがしゃがみ、手で草を掻き分けた。
石。
さらに土を払う。
「これ……」
「蓋だな」
大きい。
幅1メートル以上。
石板の中央に、錆びた鉄輪が埋め込まれている。
「こんなのあったんだ」
「村でも知られてないのか?」
「少なくとも私は初めて見ました」
レイは石板の縁を調べる。
古い。
苔。
土。
長い間、誰も開けていない。
「バルガスさんの言ってた排水路かもな」
「開けます?」
レイはフィアを見る。
「昨日までなら、お前が真っ先に開けろって言ってた気がする」
「昨日、壁の向こうから叩かれたので少し成長しました」
「いい成長だ」
レイは鉄輪へ手を掛ける。
力を入れる。
動かない。
「……重い」
「手伝います」
二人で引く。
ぎ。
少しだけ石板が浮いた。
その隙間から。
白い冷気が漏れた。
フィアの手が止まる。
「寒っ」
レイも感じた。
本物の冬だ。
十二月二十七日のリュネ村では、もうほとんど感じられなくなった冷たさ。
「続けるぞ」
「はい」
二人で石板をずらす。
ごりごりと石が擦れ、やがて人一人が通れるほどの隙間が開いた。
下は暗い。
古い石段が続いている。
「排水路……?」
「にしては広いな」
レイは〈季素灯〉を下へ向ける。
階段。
石壁。
さらに奥。
白い霜。
地下から吹き上がる冷気で、階段の縁が凍っている。
「ここに冬が流れてる」
レイは確信した。
森で感じたものとは比べ物にならない。
冬の季素が。
季塔の下へ。
大量に吸い込まれている。
「降ります?」
フィアが弓を持ち直した。
レイはすぐには答えなかった。
グレンの言葉が頭に浮かぶ。
【その鍵を開けるな】
これは西側の壁ではない。
三爪型の鍵も使っていない。
だから問題ない。
そんな理屈が一瞬浮かんだ。
「……俺も師匠に似てきたな」
「何か言いました?」
「何でもない」
都合のいい理屈を作るところまで似たくはない。
レイは入口に膝をつき、階段の構造を確認した。
崩落。
なし。
季素漏れ。
ある。
ただし危険な濃度ではない。
「途中まで行く」
「途中?」
「今の装備で戻れる範囲まで」
「了解です」
フィアは素直に頷いた。
その方が逆に不安になる。
「今日は止めないんだな」
「止めても行くでしょ?」
「ああ」
「だから一緒に行きます」
「なるほど」
理にかなっていた。
◆
地下へ降りるにつれて、空気が冷たくなった。
20段。
30段。
地上の明かりが小さくなる。
石壁には水の跡がある。
だが、排水路にしては造りが頑丈すぎる。
壁の途中に金属管まで通っている。
「これ、季脈?」
フィアが管へ触れようとする。
「触るな」
手が止まった。
「冷たいから?」
「凍傷になる」
フィアがすぐ手を引っ込める。
「先に言ってください」
「触る前に止めただろ」
「そうですけど」
レイは管へ共鳴棒を当てた。
強い。
冬。
間違いない。
「この管で吸ってる」
管は階段に沿って下へ続いている。
しかも一本ではない。
途中で二本。
三本。
壁の中から合流していく。
森。
畑。
村。
別々の枝脈から回収された冬が、ここへ集められている。
「……全部ここに来てる」
フィアも気づいた。
「村だけじゃないですね」
「ああ。少なくとも周辺一帯だ」
さらに降りる。
階段の終わりに、小さな保守室があった。
古い。
第四十一季塔の内部とは、明らかに造りが違う。
現行の設備は黒鉄と石材が中心だ。
ここはもっと色が薄い。
白灰色の石。
青みを帯びた金属。
継ぎ目の形も違う。
「レイさん」
「ああ」
「ここ、塔より古くないですか?」
「多分な」
「やっぱり」
質問ではなく、確かめるような声だった。
レイは壁へ季素灯を近づける。
表面を覆っていた霜が光を反射した。
奥には太い管が一本。
そこへ、現在の冬季導管が無理やり繋がれている。
「……見つけた」
接続部分。
溶接。
補強具。
新しい塔の管と、古い地下設備を繋ぐための改造。
レイは指先で接合部をなぞった。
「これ、最近のものじゃない」
表面の腐食。
補修材の種類。
使われている留め具。
「何年前くらい?」
「少なくとも数十年。たぶん……」
頭の中で記録を照合する。
第七次改修。
78年前。
そして、その記録だけ6ページ抜かれていた。
「第七次改修だ」
フィアもすぐに意味を理解した。
「消えてた記録」
「ああ」
78年前。
誰かが第四十一季塔の冬季導管を、この古い地下設備へ繋いだ。
だが。
「おかしいな」
レイは接合部を見る。
「3年前から冬が消えたのに、これ自体はずっと前からある」
「じゃあ、作った時から冬を吸ってたわけじゃないってことです?」
「そうなる」
フィアはしばらく管を見ていた。
「ずっと眠ってたものが、3年前に動き出したのかな」
レイは彼女を見る。
「ああ。俺もそう思う」
誰かが3年前に工事をしたわけではない。
古い仕組みが。
何十年も止まっていた仕組みが。
突然、目を覚ました。
そのきっかけが十一月二十七日。
13回鳴った鐘。
「……嫌な話になってきたな」
「最初から十分嫌でしたよ」
「確かに」
レイはさらに奥を見る。
保守室の向こうには、もう一つ通路がある。
だが。
そこは塞がれていた。
石壁ではない。
巨大な金属板。
そしてその中央には。
「…………」
レイの足が止まった。
フィアも横へ並ぶ。
「これ」
「ああ」
三方向へ伸びる、小さな溝。
この間見つけたものと同じ形。
三爪型の鍵穴。
「塔の中の壁と繋がってる」
フィアが呟いた。
位置関係を考えれば、その可能性が高い。
西側の図面にない空間。
その下へ続く未知の構造。
今いる場所は、その最下部かもしれない。
レイは鍵穴には触れなかった。
代わりに耳を澄ませる。
冬の季素。
大量。
それが金属板の向こうへ流れ込んでいる。
その先で何をしている。
貯めているのか。
使っているのか。
それとも。
別の何かへ変えているのか。
――カァン。
十三番目の〈季音〉。
今までで一番近い。
フィアには聞こえない。
だが、レイには分かった。
金属板の向こう。
ほんの数メートル先。
「……近い」
レイが呟いた次の瞬間。
管の中を走っていた冬の音が、一斉に強くなった。
「レイさん!」
「下がれ!」
今度は説明を待たず、フィアがすぐに一歩下がる。
太い管が震える。
霜が広がる。
壁。
床。
金属板。
白い氷が這うように伸びていく。
そして、金属板の向こうから低い機械音が響いた。
ゴォン。
何か巨大なものが、地下深くで動いた。
レイは息を止める。
季音が変わる。
一つ。
二つ。
三つ。
重なる。
四つ。
五つ。
まだ増える。
六つ。
七つ。
八つ。
九つ。
十。
十一。
十二。
そこで終わるはずだった。
だが。
――カァン。
最後にもう一つ。
十三番目。
レイは凍りついた金属板を見つめた。
その向こうで、何かが。
十二ではなく、十三の響きを持って、回り始めていた。




