第7話 獣道
翌朝。
レイが目を覚ました時、最初に思い出したのは昨夜の伝信だった。
【その鍵を開けるな】
グレンは、レイが送った文には一度も使っていない言葉を、はっきりとそう呼んだ。
鍵。
つまり、知っている。
あの壁が何なのか。少なくとも、あの三爪型の穴が何のためのものなのかは知っているはずだ。
「……言うこと聞け、か」
寝台の上で呟く。
師匠の命令を無視するのは慣れている。
正確には、無視して怒られるところまで含めて慣れている。
ただ、今回は少し違った。
いつものグレンなら、危険だからやめろと言う時にも理由を付ける。
導管が古い。
圧力が高い。
お前の腕ではまだ早い。
そんなふうに、腹が立つほど正しい理由を。
昨夜は違った。
触るな。
開けるな。
追うな。
理由は一つもなかった。
レイは天井を見た。
「余計気になるだろ」
師匠として最悪の止め方だった。
扉が勢いよく開いた。
「レイさん、起きてますー?」
「今起きた」
「今日は本当ですね」
「毎朝疑うのやめろ」
フィアが部屋へ顔を出す。昨日のように毛布を剥がす気だったらしいが、レイが起きているのを確認すると少し残念そうだった。
「お父さんが呼んでます」
「バルガスさんが?」
「村の人が来てて。森でなんかあったみたいです」
レイは眉を寄せた。
「季塔?」
「違うと思います。狩人の人です」
「俺、必要か?」
「お父さんが『環暦士さんにも聞かせろ』って」
「嫌な予感しかしないな」
「昨日からずっとしてません?」
「否定できない」
着替えて居間へ向かうと、バルガスの向かいに40歳ほどの男が座っていた。
厚い革の上着。泥の付いた長靴。背中には弓。
見るからに山仕事の人間だ。
「来たか」
「おはようございます」
「悪いな、朝から」
バルガスが男を示した。
「こいつはロウ。村の猟師だ」
「ロウだ。あんたが環暦士さんか」
「レイ・セインです」
「若いな」
「よく言われます」
「見習いです!」
「フィア」
「はい」
「朝から余計な補足ありがとう」
「どういたしまして!」
礼を言ったつもりはなかった。
レイは椅子へ座る。
「それで、森で何が?」
ロウが難しい顔をした。
「獣が下りてきてる」
「獣?」
「岩熊だ」
フィアの表情が変わった。
「この時期に?」
「だから来た」
レイだけが話についていけていない。
「岩熊って、そんなに珍しいんですか」
ロウがレイを見る。
「岩熊そのものは珍しくない。この辺の山なら何頭もいる」
「じゃあ何が?」
「今は十二月だ」
「……ああ」
「普通なら、とっくに穴に入って寝てる」
そこでようやく理解した。
冬眠。
「起きてるんですか?」
「それだけじゃない」
ロウは机の上へ何かを置いた。
黒っぽい毛の束だった。
「昨日、森の外れで見つけた。夏毛が混じってる」
「夏毛?」
「冬毛に生え替わりきってない」
フィアが毛束を手に取る。
「3年ずっと冬がおかしいから?」
「たぶんな」
ロウが腕を組む。
「去年までも寝る時期が遅いやつはいた。だが今年はひどい。山の実はもう少ないのに、冬にならないから身体が寝る準備に入らん」
「餌がないのに起きてる」
レイが言うと、ロウが頷いた。
「腹を空かせた熊が村の近くまで来る。一番面倒なやつだ」
バルガスが低い声で聞く。
「人は襲われたか?」
「まだだ。ただ、北の放牧小屋が荒らされた。山羊が1頭やられてる」
フィアが立ち上がった。
「いつ?」
「今朝見つけた」
「場所は?」
「古い水車道の先だ」
「私、見てくる」
「「座れ」」
バルガスとレイの声が重なった。
フィアが二人を見る。
「なんで!」
「熊だぞ」
バルガスが言う。
「知ってる!」
「なら分かるだろ」
「でも村長代理なんだから確認しないと」
「確認するのと熊に近づくのは別だ」
「私、山くらい歩けるよ!」
「それも知ってる」
親子が睨み合う。
レイは黒パンを一口齧った。
朝から元気だ。
「ロウさん」
「なんだ?」
「その場所、季塔からどっちです?」
「北西だな」
「北西……」
レイの手が止まる。
昨日、十三番目の季音は地下へ沈んでいた。
そして今朝、図面を眺めながら気になっていたことがある。
第四十一季塔から伸びる季脈の一つが、北西の森を通っている。
「俺も行きます」
バルガスがレイを見る。
「環暦士さんまで?」
「熊を見に行くわけじゃありません」
「じゃあ何を?」
「季脈です」
フィアが首を傾げる。
「森の下にも通ってるんです?」
「ああ。村へ季節を配る枝脈の一つがある」
「それが熊と関係あるんですか?」
「分からないから見に行く」
フィアがにやっとした。
「じゃあ私も」
「なんでそうなる」
「村の森は私の方が詳しいです」
「ロウさんがいる」
「ロウさんは熊を追うでしょ?」
ロウが苦笑した。
「俺は足跡見たらそっちに行くぞ」
「ほら!」
「嬉しそうに言うな」
バルガスが深く息を吐いた。
「フィア」
「なに?」
「弓持ってけ」
フィアが目を瞬く。
「いいの?」
「止めても行くだろ」
「お父さん、分かってきたね!」
「昔から分かってる。だから困ってる」
バルガスはレイを見る。
「環暦士さん」
「はい」
「娘を頼む」
「逆じゃないですか?」
「山の中じゃあいつの方が役に立つ」
「お父さん!」
「事実だ」
レイも否定できなかった。
◆
村を出て北西へ進むと、畑はすぐに途切れた。
森へ入る。
冬だというのに雪はない。
枯れ草の間から緑が残り、枝の先には季節を間違えた小さな芽まで出ている。
「気持ち悪いだろ」
先を歩くロウが言った。
「春みたいです」
「春ならまだいい」
ロウは足元を指差した。
「冬になれなかった森だ」
泥の中に、大きな足跡があった。
人の手より広い。
レイはしゃがみ込む。
「これが岩熊?」
「ああ」
「でかいな」
「若いやつならまだ小さい」
「これで?」
「これで」
聞かなければよかった。
フィアは弓を背負い、足跡の横へしゃがんだ。
「昨日の夜かな」
「分かるのか?」
「泥がまだ崩れてないから」
「そういうのもできるんだな」
フィアが振り返る。
「なんです、その意外そうな顔」
「村長代理の仕事に熊の足跡を見るのも入ってるのかと思って」
「入ってません! 子供の頃からお父さんに山に連れてかれてたんです」
「バルガスさん、何でもやるな」
「村の人は大体何でもやりますよ」
「環暦士と似てるな」
「じゃあレイさんも熊の足跡くらい分かるようにならないと」
「嫌だ」
「即答!?」
ロウが小さく笑った。
「仲いいな」
「よく言われます」
「否定してくださいよ!」
昨日から2人目だ。
レイは気にせず歩き出した。
目的は熊ではない。
地面の下。
季脈。
森へ入ってから、微かな〈季音〉が聞こえている。
春。
夏。
秋。
そして。
冬。
「……おかしい」
「何か聞こえました?」
フィアがすぐに反応した。
「ああ」
「十三番目?」
「違う」
レイは足を止めた。
目を閉じる。
地面の下を流れる響き。
「冬がある」
「え?」
「冬の季素が流れてる」
フィアの顔から笑みが消えた。
「でも村には来てないですよ?」
「分かってる」
「じゃあ何で」
「だからおかしい」
レイは森の奥へ顔を向けた。
音は弱くない。
むしろ。
「……強い」
「強い?」
「ああ。少なくとも、枯れてはいない」
季塔が冬を作れていないわけではない。
季脈に冬の季素は流れている。
それなのに村には届かない。
「どっちに流れてるんです?」
フィアに聞かれ、レイは答えようとして止まった。
もう一度、集中する。
季脈は通常、塔から外へ流れる。
季塔で整えられた季素が、枝分かれしながら畑や森や川へ配られていく。
だが。
「逆だ」
「え?」
「流れが逆になってる」
ロウも振り返った。
「何の話だ?」
「冬だけ、森から塔の方へ戻ってる」
フィアが意味を理解するまで数秒掛かった。
「それって……村に来るはずの冬が、塔に戻ってるってこと?」
「少なくとも、この枝脈では」
「そんなことできるんですか?」
「普通はしない」
「できるかできないかです」
「できる」
レイは地面を見る。
「調整弁をいじればな」
「誰かが?」
「決めつけるな」
「でも!」
「自然故障でも逆流は起きる。ただし――」
レイは言葉を切った。
森の奥。
低い音がした。
ぐるるる。
「……今の何です?」
聞く必要はなかった。
ロウが弓を手に取っている。
「熊だ」
「近い?」
「かなり」
レイは周囲を見る。
木々。
低木。
逃げ道。
正直、何も分からない。
「どうする?」
「風下へ下がる」
ロウが小声で言った。
「走るな。熊は追う」
「分かりました」
フィアが弓を構えながら後ろへ下がる。
レイも真似する。
その時。
右手の茂みが大きく揺れた。
枝が折れる。
現れた岩熊を見て、レイは最初に思った。
でかい。
次に思った。
聞いていたより、さらにでかい。
肩まででも人の胸ほどある。黒褐色の毛はところどころ薄く、冬毛になりきっていない。脇腹は痩せ、骨が浮いていた。
熊もこちらを見た。
「……腹減ってそうだな」
「感想言ってる場合ですか!」
「黙れ」
ロウが小さく言う。
岩熊が鼻を鳴らす。
一歩。
近づいた。
ロウが矢を番える。
「まだ撃つな」
フィアも弓を引いた。
「分かってる」
熊がもう一歩近づく。
ぐるるる。
低い唸り。
レイはゆっくり後ろへ下がった。
足元で。
カチ。
「……ん?」
「レイさん、止まらないで」
「いや」
「何です?」
レイは下を見る。
枯れ葉の間。
金属。
「保守口」
「今!?」
「今見つけた」
「熊の方見て!!」
「見てる」
「見てない!!」
岩熊が頭を低くした。
ロウの顔が変わる。
「来るぞ」
次の瞬間。
熊が走った。
「散れ!!」
ロウが矢を放つ。
肩へ刺さる。
だが止まらない。
フィアも横へ飛びながら射る。
矢は前脚の付け根。
「レイさん!!」
「分かってる!」
レイは走った。
木の間へ。
熊が方向を変える。
「こっち来たんだけど!?」
「走れ!!」
ロウの声。
言われなくても走っている。
背後で枝が折れる。
足音が近い。
速い。
「こんなの聞いてないぞ……!」
熊に説明書はない。
心底不便だ。
「レイさん、左!!」
フィアの声。
レイは左へ跳んだ。
直後。
岩熊の前脚が、さっきまで頭のあった場所を薙いだ。
風が顔に当たった。
「っ……!」
転がる。
土。
枯れ葉。
工具鞄が肩から外れた。
「レイさん!!」
「来るな!」
岩熊がこちらを見る。
近い。
非常に近い。
レイは腰の工具へ手を伸ばした。
短剣はある。
あるが、これで熊と戦う未来は、どう考えても明るくない。
岩熊が立ち上がる。
その後ろ。
地面に埋まった保守口。
季脈。
冬の音。
「……そうか」
レイは立った。
「レイさん、何してるんです!?」
「フィア!」
「はい!?」
「熊から離れろ!」
「レイさんが離れて!!」
「いいから!!」
レイは保守口へ走る。
岩熊も追う。
金属蓋。
古いが、塔ほどではない。
工具を差す。
「開け」
一回。
回らない。
「頼むから今日だけ素直に開け」
二回目。
ガチン。
開いた。
中には小さな調整弁。
「……やっぱり」
逆流している。
表示針が、塔側を向いている。
誰かが意図的に切り替えたように。
考えるのは後。
岩熊が迫る。
レイは弁を掴んだ。
「レイさん!!」
「ちょっと寒くなるぞ!!」
「え?」
弁を一気に開いた。
――ゴォッ!!
地面の下で音が弾けた。
白い霜が、保守口を中心に走る。
一瞬で草を覆い。
土を白くし。
木の根まで凍らせる。
「うわっ!?」
フィアが飛び退く。
岩熊も止まった。
冷気。
冬。
この村から消えていたはずの冬が。
ほんの一瞬だけ。
森へ溢れた。
岩熊が鼻を鳴らす。
霜の上へ前脚を置く。
動きが止まる。
「……?」
熊が周囲を見る。
明らかに様子が変わった。
先ほどまでの荒い呼吸が落ち着いていく。
「レイさん?」
「動くな」
岩熊はもう一度、冷えた空気を嗅いだ。
それから。
レイたちではなく。
山の方を向いた。
一歩。
二歩。
ゆっくりと森の奥へ戻っていく。
ロウも矢を構えたまま動かない。
やがて。
岩熊の姿が木々の向こうへ消えた。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのはフィアだった。
「……今の何ですか?」
「冬」
「それは見れば分かります!!」
レイは調整弁を閉じた。
霜の広がりが止まる。
「熊、帰りましたけど」
「冬を感じたからだろ」
ロウが弓を下ろした。
「穴に戻る気になったってことか?」
「多分」
「多分で熊を相手にしたんですか!?」
フィアが詰め寄ってくる。
「他に方法なかっただろ」
「死ぬかと思ったんですよ!!」
「俺もだ」
「昨日もそれ言ってましたよね!?」
「最近多いな」
「増やさないでください!!」
レイは返事をせず、保守口へ視線を戻した。
フィアもそれに気づく。
「……どうしたんです?」
「これ」
表示針。
さっきまで塔側を向いていた。
弁を開いたことで一度正常方向へ戻ったが、今また。
ゆっくり。
塔側へ引かれていく。
「勝手に動いてます!」
「ああ」
「故障?」
「違う」
レイは弁に手を当てる。
機械が壊れている感触ではない。
どこか別の場所から、圧力で引かれている。
「塔の方で吸ってる」
「冬を?」
「ああ」
フィアの顔が強張った。
「じゃあやっぱり……冬はなくなったんじゃない」
レイは答えなかった。
地面へ耳を澄ませる。
冬の季素はある。
流れている。
ただし。
村へ向かってではない。
第四十一季塔へ。
さらに、その下へ。
「……消えてない」
レイは呟いた。
「え?」
「冬は作られてる」
レイは立ち上がる。
季塔のある方角を見る。
木々に隠れて塔そのものは見えない。
それでも。
音だけは聞こえる。
冬の季素が。
村から。
森から。
周囲の土地から。
少しずつ。
どこかへ吸い集められている。
「届いてないんじゃない」
レイは少し考えた。
そして、今分かっていることだけを口にする。
「村に来るはずの冬が、途中で持っていかれてる」
「持っていかれてる……?」
「ああ」
「どこに?」
レイは答える代わりに、地面を見る。
十三番目の季音。
図面にない空間。
地下へ続く音。
そして、逆流する冬。
行き先は。
おそらく。
「塔の下だ」
森の中。
季節外れの緑の上に残った霜が、朝の光を受けて静かに輝いていた。




