第31話 暦の行方
【主暦 移動中】
その表示は、何度見ても意味が分からなかった。
レイは暦基準器の前にしゃがんだまま、もう一度文字を読む。
移動中。
見間違いではない。
古い文字が急に冗談を覚えたわけでもない。
「……何が動くんだよ」
思わず口から出た。
「主暦でしょう」
隣でリディアが答える。
「それは読める」
「なら聞かないでください」
「塔が歩くのかもしれないだろ」
「その場合、もっと大きな問題になります」
「そういう可能性を真顔で返すのやめて」
この人と話していると、冗談がどこまで冗談なのか分からなくなる。
グレンは二人を放って、外部同期線へ計器を繋いでいた。
「レイ。まだ聞こえるか」
「ああ」
レイも余計なことを考えるのをやめ、細い金属線へ指を触れる。
カァァン――。
遠い。
十三基の季塔から返ってくる音より、さらに奥。
低く、重く、それでいて一定の場所に留まっていない。
「さっきより……右」
「右?」
「方角で言うなら北東寄り」
リディアがすぐ地下図面を広げた。
「音で方角まで分かるんですか?」
「正確には無理。でもさっきより位置がずれて聞こえる」
「誤差は?」
「知らない」
「そこを知りたいんですが」
「俺も知りたい」
リディアが何か言いかけたが、グレンが先に口を挟んだ。
「第四十一と第四十八の記録を並べろ」
「同期信号ですか?」
「ああ。信号到達時刻に差があるなら、少なくとも近づいたか遠ざかったかは見える」
リディアはすぐに記録紙を探し始めた。
レイは感心する。
自分なら音を追う。
グレンは複数の現場を比べる。
リディアは数字へ落とす。
3人いると便利だ。
ただし、その分だけ報告書も増える。
世の中うまくできていない。
「第四十一の最終同期記録はありますか」
「切離直前なら」
グレンが紙を一枚渡した。
第四十一季塔。
第四十八季塔。
信号間隔。
暦の進行。
リディアの指が数字を追っていく。
「……確かに変化しています」
「どれくらい?」
「第四十一で確認された時点より、第四十八の方が同期信号の間隔が短い」
「近づいてる?」
「その可能性があります。ただし中継方式が同じなら、です」
「また条件付き」
「条件を消すと嘘になります」
それはそうだ。
最近、レイも少しだけ慣れてきた。
「北東には何がある」
グレンが古い環路図へ灯りを寄せる。
第四十八季塔から北東へ、薄い線が伸びている。
現行の街道とは一致しない。
十三塔を結んでいる古い〈環路〉だ。
「次の塔?」
レイが聞く。
「いや」
グレンの指が途中で止まった。
「塔番号がない」
第四十八と次の季塔の間。
古い線が、一度大きく膨らんでいる場所がある。
円ではない。
楕円に近い印。
これまで何度か図面を見ているが、レイは塔同士を繋ぐ線の一部だと思っていた。
「これ何?」
「凡例が欠けてる」
リディアが図面の端を見る。
「現行地図と重ねます」
彼女は別の地図を机へ広げ、位置を合わせる。
少しずらす。
向きを変える。
「この辺りです」
指先が止まった。
ノルクの北東。
街道から外れた山間部。
「何がある?」
「現在の地図では……」
リディアが目を細める。
「何もありません」
「何もない?」
「集落も季塔も主要街道もない。古い採掘道が一本ある程度です」
レイは図面へ耳を近づけるような気分になった。
紙が鳴るわけではない。
分かっている。
でも、その楕円が妙に気になった。
「そこへ向かってる気がする」
「主暦が?」
「ああ」
口にしてから、自分でも変なことを言っていると思う。
場所の分からない何かが、地図上の何もない場所へ向かっている。
かなり怪しい。
それでも音だけは、確かに北東へずれている。
「確認方法が必要ですね」
リディアが言った。
「第四十七季塔の記録を取れば、三点になります」
「三つあれば絞れる?」
「同期信号の仕組みが同一なら」
「またそれ」
「慣れてください」
慣れたくはない。
グレンが通信器へ向かった。
「第四十七へ照会する。ついでに各塔の十三月進行も確認だ」
「第四十八だけじゃない可能性ある?」
「むしろ、その方が自然だ」
レイは中央の十三月季環を見る。
今は【次環暦 移行待機】。
主暦からの再同期を待って止まっている。
もし他の塔も同じなら。
十三月は各地で十四日まで進み、その先へ行けずに待っていることになる。
世界中が年越し直前で止められている。
もちろん現実の日付は普通に進んでいる。
暦だけが別のところで勝手に年末を始めている。
「……気持ち悪いな」
「また言ってますね」
「今回は季節じゃなくて暦だからいいだろ」
「よくはありません」
何が駄目なのかは、もう聞かなかった。
◆
地上へ戻る頃には、空が少し白み始めていた。
結局、一晩ほとんど寝ていない。
外へ出ると冷たい風が頬へ当たる。
「寒っ」
レイは外套の襟を上げた。
昨夜まで春に寄っていた街は、今度は冬へ少し戻っている。
屋根から落ちていた雪解け水は細くなり、路地の端には薄い氷が張っていた。
それでも若葉は消えない。
花も咲いたままだ。
春を途中まで呼び出し、やっぱり冬へ戻したような街並みだった。
季節に優柔不断という言葉が使えるなら、たぶん今がそうだ。
「寝てください」
リディアが言った。
「急だな」
「顔色が悪いです」
「元から」
「昨日より悪いですよ」
「細かいところ見るなあ」
「観測が仕事なので」
そこまで言われると、何も返せない。
「中央の調査官が来るまで1時間半ほどあります」
「1時間半しかない」
「1時間半もあります」
「価値観が合わない」
「睡眠に関してはあなたの価値観がおかしいだけです」
正論だった。
グレンにも何度も言われた。
フィアにも言われた。
リディアにまで言われ始めた。
自分の周りには、どうしてこう人の睡眠を管理したがる人間が多いのだろう。
原因が自分だという可能性については、考えないことにする。
「レイ」
グレンが塔の入口から呼ぶ。
「何」
「寝ろ」
「増えた」
「何が」
「同じこと言う人」
「いいから行け」
「第四十七の返事は?」
「来たら起こす」
「絶対?」
「お前が起きなかったら蹴る」
「方法が雑」
「それが確実だ」
反論できなかった。
◆
目を閉じた。
次に開けた時、知らない天井だった。
「……どこ」
「第四十八季塔の休憩室です」
声がする。
横を見る。
リディアが椅子に座り、何か書いていた。
「何でいるの」
「記録をまとめています」
「ここで?」
「机が空いていたので」
何とも夢のない答えだった。
レイは身体を起こす。
外套を掛け布代わりにしていたらしい。
窓から朝日が入っている。
「どれぐらい寝てた?」
「1時間43分です」
「結構寝たな」
「普通は短いです」
「俺には長い」
「誇らしげに言わないでください」
頭は少し軽い。
かなり眠いけど、さっきよりはましだ。
「グレンは?」
「通信室です。第四十七から返答が来ました」
眠気が飛ぶ。
「それ先に言って」
「今言いました」
「起こしてくれてもよかったのに」
「アルディス一級環暦士から、1時間半は起こすなと」
「……あの人、そういう命令だけ厳しいな」
ベッドから降りる。
工具鞄を掴む。
そこで机の端に、小さな包みが置かれているのに気づいた。
「何これ」
「朝食です」
「俺の?」
「はい」
パンと薄切りの肉。
それに小さな焼き菓子が一つ。
「リディアが?」
「食堂の方が置いていきました」
何となくフィアの包みを思い出しただけだった。
工具鞄の内側には、昨日の紙がまだ入っている。
【ちゃんと食べてください】
偶然だ。
飯は食べるものだから似る。
当たり前だ。
それでも、レイはパンを一つ手に取った。
「歩きながら食べます」
「座って食べてください」
逃げられそうにない。
仕方なく椅子へ座る。
リディアは書類へ戻った。
レイはパンを食べる。
静かだった。
フィアとは違う。
フィアなら何か喋る。
食べるのが速いとか、ちゃんと噛めとか、多分そういうことを言う。
リディアは仕事をしている。
別にそれでいい。
なのに、自分でもよく分からないところで少しだけ物足りない。
「何ですか」
「何でもない」
「さっきから時々こちらを見るので」
「見てた?」
「見えます」
流石観測が仕事なだけある。
それが少し厄介だった。
◆
「第四十七は、すでに十四日だ」
通信室へ入るなり、グレンが言った。
机の上には新しい記録紙が並んでいる。
【第四十七季塔】
【旧暦表示 十三月十四日】
【遷季処理完了】
【次環暦移行待機】
【主暦同期待機】
「同じ」
「ああ」
「春は?」
「第四十八ほど大きな偏りは出ていない。代わりに秋季素が上がった」
「秋?」
「平年比2.1倍」
レイは紙を見る。
第四十一では冬。
第四十八では春。
第四十七では秋。
「塔ごとに違う」
「元々抱えていたずれを補正している可能性があります」
後ろから入ってきたリディアが言う。
「各塔の残季量が違えば、十三月季環の補正対象も変わる」
「第四十一は3年分の冬が――」
言いかけて止める。
違う。
単純に3年分を溜めていたわけではない。
「冬側の異常が大きかった」
「はい」
リディアが自然に言い換えてくれた。
助かる。
「第四十七の同期信号は?」
グレンが別紙を出す。
「取れた」
三塔分。
第四十一。
第四十七。
第四十八。
同じ主暦応答を受けた時刻と、信号強度。
リディアが数字を並べる。
「第四十七より第四十八の方が近い」
「信号上はな」
グレンが古い環路図を開く。
「第四十七、第四十八、それとレイが感じた方向を合わせると」
3人の視線が同じ場所へ集まった。
昨日見つけた楕円。
現行地図では何もない山間部。
「ここ」
レイが言った。
「かなり近いな」
「現在位置とは限りません」
リディアが訂正する。
「移動しているなら、観測時刻ごとに位置が変わっています」
「つまり追わないと分からない」
「観測を続ければ、進行方向は出せます」
グレンが顎を撫でる。
「北東へ向かってるのはほぼ間違いない」
「何があるんだろ」
「だから何もないと」
リディアが言う。
「今の地図には、だろ」
レイは古い環路図を見る。
十三月が消えたのは約170年前。
現在の地図に何もなくても、その頃まで何もなかったとは限らない。
「古い地図」
グレンが言った。
「ノルクに残ってるか?」
「街道管理所なら過去の路線図があります」
「採掘関係は?」
「商業組合か鉱山組合です」
「行くぞ」
グレンが立つ。
「中央調査官は?」
「着いたらリディアが説明する」
リディアの顔が止まった。
「私が?」
「ああ」
「アルディス一級環暦士が説明した方が早いと思いますが」
「俺たちは古地図を見る」
「私は?」
「現地統括だろ」
綺麗な正論だった。
リディアが数秒黙る。
「……了解しました」
少しだけ嫌そうだった。
レイは笑いを堪える。
「何です?」
「いや」
「今笑いましたね」
「気のせい」
◆
ノルク商業組合は、朝から騒がしかった。
東湿原の氷路が使えなくなった影響で、荷車の予定が全部狂っているらしい。
入口には商人や御者が集まり、誰が先に迂回路へ回るかで揉めている。
「環暦士さん!」
グレンの資格章を見つけた男が近づいてくる。
「湿原はいつ戻るんだ!」
「今確認中だ」
「荷が3日止まったら損が――」
「道が沈めば全部失う」
「それは分かってる! だが――」
その後ろから別の男。
「南回りを開けてくれ!」
「雪崩区間があるだろ!」
「昨日から暖かいんだ、溶けてる!」
「溶けたから危ねえんだよ!」
一気に声が増える。
レイは少し後ろへ下がった。
季塔の内部の方が楽かもしれない。
機械は怒鳴らない。
たまに爆発するけど。
「レイ」
「何」
「逃げるな」
「逃げてない。距離取っただけ」
「同じだ」
グレンは商人たちへ向き直る。
「午後に街道管理所と状況を出す。それまでは湿原へ入るな。南回りも現地確認が終わるまで使うな」
「それじゃ荷が――」
「人間が沈むよりましだ」
「そんな簡単な話じゃ――」
「知ってる」
グレンの声が少し低くなった。
商人が止まる。
「だから午後に決める。今ここで俺に道を開けろと言わせても、安全にはならん」
怒鳴ってはいない。
でも、一級環暦士の肩書きより効く何かがあった。
男たちは不満そうにしながらも引いた。
「慣れてるな」
レイが言う。
「何が」
「人に怒られるの」
「お前ほどじゃない」
「俺、そんな怒られてる?」
答えはなかった。
商業組合の奥。
倉庫のような資料室へ案内される。
古い街道図。
税関記録。
鉱山道。
湿原の冬季路。
何十年分もの紙が棚に詰められている。
「170年前」
レイは棚を見る。
「残ってる?」
「完全なものは期待するな」
グレンが埃を払う。
「ノルクは交易街だ。道の記録は役所より商人の方がしつこく残す」
「金が絡むから?」
「そういう記録が一番強い」
妙に納得できた。
二人で古い地図を探す。
五十年前。
八十年前。
百二十年前。
紙はだんだん茶色くなり、文字も古くなる。
「これ」
レイが一枚を引き出した。
【旧北東採掘路】
年代は168年前。
「近いな」
グレンが広げる。
ノルクから北東へ伸びる古道。
今の採掘道と途中までは同じ。
だが、現在の地図では消えている分岐が一本ある。
山へ入り。
谷を越え。
古い環路図の楕円と、ほぼ同じ場所へ向かっている。
「道あったじゃん」
「行き先は」
線の終点に文字がある。
半分擦れていた。
【――暦院】
「暦院?」
レイが読む。
「王立環暦院?」
「違う」
グレンが即答した。
「王立環暦院が今の名称になったのはもっと後だ」
「じゃあ何」
地図の横に、小さな注記があった。
【旧暦観測所附属――】
そこから先は破れている。
レイとグレンが黙る。
「観測所」
「主暦と関係あるかもしれん」
その時、資料室の入口から声がした。
「その地図、どこで見つけました?」
振り向く。
リディアが立っていた。
その後ろに、見知らぬ男がいる。
三十代後半くらい。
黒い長外套。
胸には王立環暦局の中央章。
細身だが姿勢がよく、短い金髪を後ろへ撫でつけている。
「中央調査官、アーヴェル・ノインです」
男はレイたちではなく、机の古地図を見ていた。
「到着早々で悪いですが、その場所へは行かないでください」
グレンの表情が変わる。
「理由は」
アーヴェルは数秒黙った。
「中央局の封鎖指定区域です」
「現行地図には何もないが」
「何もないことになっています」
レイは男を見る。
言葉の選び方が引っ掛かった。
「そこに何がある?」
アーヴェルの視線が初めてレイへ向く。
資格章。
第三級環暦士・実務生。
それを確認してから答えた。
「あなたの権限では開示できません」
嫌な言葉だった。
この数日で何度も聞いた種類の言葉だ。
知らない方がいい。
話せない。
必要になれば。
レイはそれが、だんだん嫌いになっていた。
「グレンなら?」
アーヴェルがグレンを見る。
「一級でも同じです」
「ほう」
グレンの声が低くなる。
「なら聞き方を変える」
古い地図の上へ指を置く。
「今、ここに何かあることは否定しないんだな」
アーヴェルは答えなかった。
その沈黙で十分だった。
レイは工具鞄の中へ手を入れかけてやめる。
封環は第四十一季塔に装着したまま。
手元にはない。
それでも、十三番目の音は聞こえている。
北東。
地図の先。
さっきより少しだけ近い。
カァン――。
遠くで鳴る。
「グレン」
「ああ」
「向こう、また動いた」
中央調査官の顔が初めて崩れた。
「……何がです?」
レイは古地図の終点を見る。
何もないことになっている場所。
「主暦」
その一言で、アーヴェルから血の気が引いた。
どうやら中央は、何も知らないわけではないらしい。




