第30話 終わらない月
十三度目の鐘が鳴り終わった。
その余韻だけが、第四十八季塔の地下に長く残っている。
【十三月 十四日】
暦基準器の表示は動かない。
レイは文字を見たまま、耳だけを澄ませていた。
何か来る。
そう思った。
理由は説明できない。
十三番目の〈季音〉が、これまでとはまるで違っていた。
昨日までの音は、遠くにある鐘を壁越しに聞いているような響きだった。今は違う。すぐ背後に巨大な鐘が吊られ、まだ鳴っていないのに金属そのものが震えているような感覚がある。
「レイ」
グレンが呼ぶ。
「聞いてる」
「何が起きる」
「分からない」
「なら、聞こえたものだけ言え」
分からない時ほど余計な意味を付けるな。
昔から何度も言われてきた。
レイは目を閉じる。
「十三番目は止まってない。むしろ強い。十二の月輪も全部繋がってる」
「四季は?」
「全部いる」
春。
夏。
秋。
冬。
どれかが暴れているわけではない。
四つとも、十三番目の音の周囲で待っている。
「待機状態?」
リディアが季素計を確認しながら聞く。
「そんな感じ」
「そんな感じでは記録できません」
「じゃあ『四季全部が何か待ってる感じ』って書けば」
「書きません」
こんな時でも通常運転だった。
少し安心する自分が嫌になる。
リディアの手元では、春季素が3.2倍。
夏、秋、冬にも僅かな振れがある。
値だけ見ればまだ壊滅的ではない。
それが逆に不気味だった。
十三月十四日。
グレンが師匠から聞いたことのある日付。
そして、その日付へ到達した瞬間に十三回の鐘。
偶然と言うには、さすがに綺麗すぎる。
「グレン」
「ああ」
「昔聞いた十三月十四日って、鐘の話もなかった?」
「ない」
「本当に?」
「本当にだ」
答えが早い。
今回は疑わなくていいだろう。
疑わなくていい師匠というだけでありがたいと思うようになった自分は、何かがおかしい。
その時。
カッ。
中央の十三月季環が光った。
「来ます!」
リディアが声を上げる。
十三枚の金属輪へ、白い光が走る。
一月。
二月。
三月。
順番ではなかった。
まず十二。
次に三。
七。
一。
九。
まるで装置が一枚ずつ状態を確かめるように、ばらばらの順序で環が点灯していく。
「季素値変動!」
リディアが計器を追う。
「冬、1.4! 夏0.6、秋0.8――春が2.7まで低下!」
「均してる?」
レイが聞く。
「その可能性はあります!」
異常に高かった春が下がり、他の季節が上がっている。
十三月季環が、偏った季節を平均へ戻そうとしている。
正常な仕事。
たぶん。
問題は、この街にいる人間がそんな速度で季節を均されたら困るということだ。
「外は?」
グレンが壁の通信器を取る。
【地上観測、応答】
数秒後。
【春季素低下確認】
【気温急降下中】
【東水路周辺、再凍結開始】
「早すぎる」
レイが言う。
つい数時間前、急に冬へ戻せば氷路の表面だけが凍ると聞いたばかりだ。
春が下がること自体は正しい。
正しいことが、正しい速度で起きていない。
「遷季調整の速度を落とせるか?」
グレンが装置を見る。
「制御箇所を探します」
リディアがすぐ動く。
「止めるなよ」
「分かっています」
「完全停止じゃなくて、速度だけ落とす」
「同じことを二度言わなくても理解しています」
「念のためだ」
「あなたの弟子と一緒にしないでください」
「俺何もしてないけど」
「過去の実績です」
酷い。
しかも反論しづらい。
レイも中央環へ近づく。
音を聞く。
十三月季環そのものに異常はない。
なら、速すぎる原因は別にある。
圧縮運転。
どこかが「一月分の処理を数時間で済ませろ」と命令している。
「暦基準器」
レイが言った。
「何?」
リディアが振り返る。
「速度を決めてるの、そっちじゃない?」
日付を進めていたのは暦基準器だ。
十三月季環は、その日付に合わせて処理を進めているだけかもしれない。
三人で基準器へ向かう。
表示は十四日のまま。
だがその下。
昨日まではなかった文字が現れていた。
【遷季最終日】
さらに。
【全季補正 実行中】
「最終日」
レイが呟く。
「十三月は十四日までだった?」
リディアが記録板へ写す。
「少なくとも、この運転手順では十四日が最終日とされています」
十四日しかない月。
それとも今の圧縮運転だけ十四段階なのか。
まだ分からない。
ただ一つ分かることがある。
「今日で終わらせる気だ」
レイが言う。
十三月季環は今、この街の一年分のずれを一気に整えようとしている。
そして終了すれば、おそらく次の一年へ移る。
「その後は一月?」
「おそらく」
リディアが答える。
「一月輪への配分が完了すれば、旧設備上は新しい年へ移行するはずです」
「現実はまだ冬だけど」
「はい」
「最悪だな」
暦だけ来年へ進み、現実の季節だけ取り残される。
もしくは現実の方まで無理に引っ張られる。
どちらがマシかと聞かれたら、どちらも嫌だ。
環暦士になってから二択の質が悪くなった気がする。
「速度制御、見つけました」
リディアが基準器の右側を指す。
小さな歯車列。
その脇に古い刻印。
【圧縮倍率】
指針は最大位置に近い。
「これだ」
レイが手を伸ばす。
「触るな」
グレンに手首を掴まれた。
「まだ触ってない」
「触る顔だった」
「最近みんなそれ言う」
「実績だ」
グレンは倍率計を覗き込む。
「誰かが最大へ上げた形跡は?」
リディアが灯りを近づける。
「操作傷は古いです。新しい工具痕はありません」
「自動制御か」
「可能性が高いですね」
レイは倍率機構へ耳を寄せる。
細い音がある。
外部同期線。
そこから一定間隔で信号が来るたび、倍率歯車が少しずつ上がっていた。
「外から上げられてる」
「第四十一から?」
リディアが聞く。
「違う」
即答できた。
第四十一の音はもう外部環路から切れている。
今聞こえているのは別の方向だ。
もっと遠い。
もっと大きい。
「十三基のどれか?」
グレンが聞く。
「……たぶん違う」
「理由は」
「十三基の音より奥にいる」
言葉にすると変だった。
でも、それ以外に言いようがない。
第四十一。
第四十七。
第四十八。
これまで聞いた塔の十三番目の音は、それぞれ個別に存在していた。
今聞こえるものは、それら全部のさらに向こうから来ている。
鐘ではない。
低く長い響き。
大きすぎて、今まで背景だと思っていた。
「中心がある」
レイが言った。
「十三基を繋いでる、その先に」
リディアの手が止まる。
「中枢設備?」
「分からない。でも、この倍率信号はそこから来てる」
グレンが外部同期線を見る。
「十三塔共通の上位系統か」
「そんなもの、現行記録にはありません」
「十三月そのものがないんだ。記録に期待するな」
「……確かに」
リディアが素直に認める。
そこは本当に話が早い。
レイは圧縮倍率計を見る。
「速度だけ落とせる?」
「信号を切らずに、この歯車だけ制限すれば」
リディアが構造を追う。
「理論上は可能です」
「理論上」
「嫌な顔をしないでください」
「理論上って大体怖いから」
「実務生の経験則ですか?」
「人生経験」
「20年で?」
「そこ突く?」
グレンが二人の間へ入る。
「やるぞ」
軽口が止まる。
「リディア、倍率を下げる。最低にはするな。半分だ」
「半分で?」
「まず反応を見る」
「了解」
「レイ」
「音を見る」
「そうだ」
役割が決まる。
それだけで頭が切り替わった。
リディアが固定具を外す。
グレンが倍率輪へ専用鉗子を掛ける。
レイは目を閉じた。
「少しずつ」
「ああ」
金属が動く。
ギ、ギギ――。
十三月季環の音が僅かに変わる。
「まだ」
倍率が下がる。
「まだ平気」
さらに。
「そこで止めて」
グレンが止める。
リディアが数値を見る。
「圧縮倍率、推定52パーセント」
外部から次の信号が来る。
カン。
歯車が動こうとする。
だがグレンが設けた制限具に当たり、止まった。
「戻されます!」
「押さえろ」
リディアが補助固定。
レイは音を聞く。
十三番目が一瞬だけ強くなる。
怒った。
そんな馬鹿な感想が浮かぶ。
機械が怒るわけがない。
でも、命令通り進めないことに対して、どこかが何度も圧縮信号を送ってきている。
カン。
カン。
カン。
「しつこいな」
「何が?」
「向こう」
「どこです」
「分からない」
「では記録できません」
「『しつこい』って書いといて」
「書きません」
少しだけ笑いそうになった。
その直後。
中央環が大きく震えた。
「来る!」
四季の音が一斉に動く。
春。
夏。
秋。
冬。
だが、さっきより遅い。
流れが変わった。
「地上値!」
グレンが通信器へ叫ぶ。
【春季素2.5】
【冬季素1.3】
【気温低下速度、半減】
【東水路再凍結速度、低下確認】
「効いてる」
リディアが息を吐いた。
「圧縮倍率と季節補正速度は連動しています」
「じゃあもっと落とせば?」
レイが言う。
「待て」
グレンが止める。
「何で」
「今の速度で街が耐えられるか確認する。遅ければいいってもんでもない」
「十三月を引き延ばすことになるから?」
「ああ」
春季素が高い状態が長く続けば、今度は融雪被害が長引く。
早すぎれば急変で街が壊れる。
遅すぎても街が壊れる。
「ちょうどよくしろって?」
「そうだ」
「簡単に言うなあ」
「簡単なら一級はいらん」
「じゃあ一級がやって」
「お前も環暦士だ」
「実務生だけど」
「昇格申請取り下げるぞ」
「頑張ります」
我ながら切り替えが早かった。
◆
それから約1時間。
三人は十三月季環の速度を調整し続けた。
圧縮倍率を少し下げる。
街側の季素を見る。
湿原の温度を見る。
水路の流量を見る。
また少し変える。
正解は設備の中にはなかった。
街の外にあった。
どれだけ春を残せば氷路が壊れないか。
どれだけ冬へ戻せば水路が凍らないか。
どれだけ早く季節を動かせば人間が追いつけるか。
リュネ村でグレンが言ったことを思い出す。
塔だけ見て直すと、街を壊すことがある。
あの時は意味が分かったつもりだった。
今は、もっと面倒な意味まで分かってきた。
機械の正常値は一つでも、人間の都合は一つじゃない。
職業として嫌な発見だった。
「現在倍率31パーセント」
リディアが言う。
「地上の春季素2.1倍。低下速度安定」
通信器から街道管理所の報告。
【東湿原 急速再凍結なし】
【明朝までに残留隊退避予定】
【東水路 許容水位】
「ここだな」
グレンが言った。
31パーセント。
何とも中途半端だ。
「もっときりのいい数字じゃ駄目?」
「街が31でいいと言ってる」
「街は言ってないだろ」
「数値が言ってる」
「リディアみたいなこと言い始めた」
本人がこちらを見る。
「何ですか」
「何でもない」
これ以上敵を増やす必要はない。
レイは中央環へ耳を澄ませる。
十三番目はまだ強い。
だが、さっきまでの切迫した響きは薄れている。
「落ち着いた」
「十三月季環が?」
「うん」
「機械に感情はありません」
リディアが即答する。
「知ってるよ」
「なら」
「聞こえ方の話」
「最初からそう言ってください」
「面倒くさいな」
「正確です」
レイは少し笑う。
このやり取りにも慣れてきた。
その時。
暦基準器の下部で、小さな音がした。
カチ。
三人の視線が集まる。
【全季補正 完了】
表示が変わる。
「終わった?」
レイが聞く。
「待ってください」
リディアが読む。
【次季配分 完了】
【遷季処理 完了】
そして最後に。
【次環暦 移行待機】
レイは眉を寄せた。
「待機?」
十三月十四日まで来た。
全季補正も終わった。
なのに一月へ移らない。
「何を待ってる?」
グレンが装置を見る。
その答えはすぐに現れた。
【主暦同期 待機】
部屋の空気が変わった。
「主暦」
リディアが小さく読む。
「さっきレイが聞いた中枢設備と関係が?」
「たぶん」
レイは外部同期線へ手を触れる。
あの遠い音が、まだいる。
低く。
大きく。
十三基の向こう。
「向こうの返事待ちだ」
「何と同期する?」
グレンが聞く。
「分からない」
今度は無理に答えを作らなかった。
聞こえるものだけ。
遠い音。
十三の塔。
そしてその向こうの一つ。
「でも、十三月が終わるにはそこが必要なんだと思う」
グレンが表示を睨む。
「主暦……」
その言葉に何か引っ掛かっているようだった。
「聞いたことある?」
「ない」
「顔があるって言ってる」
「似た言葉を聞いた気がするだけだ」
「誰から」
「師匠だ」
やっぱり。
「何て?」
「思い出してる」
珍しく、グレンがすぐ答えなかった。
記憶を探している。
「昔、十三月の話をした時だ。あいつが一度だけ……」
グレンの眉間に皺が寄る。
「『主暦が沈んだから、十三月は終わらなかった』」
レイは瞬きをした。
「沈んだ?」
「ああ」
「何が」
「知らん」
「また?」
「だから俺も聞いた」
「答えは?」
グレンは苦い顔をした。
「必要になれば話す、と」
「……その人、一回会いたいな」
「俺もだ」
「生きてない?」
「もういない」
声が少しだけ低くなった。
レイはそれ以上聞かなかった。
リディアが表示を書き写す。
「主暦が沈んだ。十三月は終わらなかった」
「もしその言葉通りなら」
レイは【次環暦 移行待機】を見る。
「170年前も、ここで止まった?」
誰も答えない。
十三月十四日。
十三回の鐘。
そして、次環暦へ移れず止まった十三月。
グレンの師匠が口にしたという昔の話と、今ここで起きていることが、不気味なくらい重なっていた。
170年前にも、同じ日付で何かが起きたのかもしれない。
その時。
外部同期線から音が来た。
カァァン――。
今までで一番大きい。
レイは反射的に耳を押さえた。
「っ……!」
「レイ!」
グレンが支える。
「大丈夫か!」
「待って……」
音が頭の中まで入ってくる。
第四十一。
第四十七。
第四十八。
他の塔。
十三基の十三番目が、一斉に同じ方向へ鳴っている。
そしてその先。
ずっと沈黙していた大きな音が。
一度だけ。
返した。
ゴォォン――。
レイは息を止めた。
「……返事した」
「何が」
グレンの声。
レイはゆっくり顔を上げる。
「主暦」
言った瞬間、暦基準器の表示が切り替わった。
【主暦応答 確認】
【再同期 開始】
リディアが息を呑む。
「再同期……」
さらに文字が出る。
【主暦位置 照合】
【――失敗】
もう一度。
【照合】
【失敗】
三度目。
【照合失敗】
【位置情報欠損】
「位置が分からない?」
レイが言う。
グレンの表情が険しくなる。
そして最後。
表示板に、今まで見たことのない一文が現れた。
【主暦 移動中】
誰もすぐには言葉を出せなかった。
「……移動中?」
リディアが最初に声を出す。
「設備が?」
「塔じゃないのかもしれない」
レイは外部同期線へ手を当てたまま答える。
遠い。
だが、さっきよりはっきり聞こえる。
あの巨大な音は、確かに動いている。
位置を変えながら。
十三基の季塔へ近づいているのか。
遠ざかっているのか。
それすらまだ分からない。
ただ一つ。
十三月は終わらなかった。
次の一年へ進むはずの環が、主暦からの同期を待って止まっている。
そして170年前に「沈んだ」と言われた何かが。
今になって、また動き始めている。
「グレン」
「ああ」
「これ、中央の調査官待ってる場合じゃない気がする」
「奇遇だな」
グレンは通信器を取った。
「俺も同じことを考えてた」
レイはもう一度、遠い〈季音〉を聞く。
十三月十四日。
かつて何が起きた日なのかは、まだ分からない。
けれど一つだけ確かなことがある。
170年前に止まったものは、過去の中に置き去りになったわけではなかった。
それは今もどこかに存在していて。
こちらへ、動いている。




