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十三月の環暦士 ~季節の果てで鐘が鳴る~  作者: 久遠こよみ
第2章 春を急ぐ街

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第29話 走る暦

 第四十八季塔の地下から戻った時、ノルクの夜は妙に暖かかった。


 暖かい、といっても春の夜ほどではない。息を吐けばまだ白く、厚手の外套も必要だ。


 問題は、今が冬だということだった。


 塔を出たレイの靴底を、屋根から落ちた雪解け水が流れていく。


「また溶けてるな」


「春季素、2.7倍です」


 隣でリディアが季素計を見る。


「さっきより上がってない?」


「0.2倍」


「それを上がったって言うんじゃないの」


「誤差ではない、という意味なら上がっています」


「最初からそう言えばいいのに」


「言いました」


 言ってない。


 たぶん。


 いや、相手がリディアだと、自分が聞き流した可能性も捨てきれない。


 面倒なので考えるのをやめた。


 グレンはすでに通信室へ向かっている。


 十三月季環。


 遷季調整。


 圧縮運転。


 そして【同期起点 第四十一季塔】。


 どれも北方支局へすぐ報告すべき内容だった。


 レイとリディアも後を追おうとした時、街のどこかから水音が聞こえた。


 かなり大きい。


「何だ?」


 通りの向こうで人が走っている。


「東水路だ!」


「水門を開けろ!」


「雪解け水が増えてるぞ!」


 リディアが季素計から顔を上げた。


「春季素の上昇で融雪速度が増しています」


「言われなくても見れば分かる」


「確認です」


「便利な言葉だな、それ」


 レイは通りの端へ寄った。


 側溝を流れる水が、夕方より明らかに増えている。


 季節が数か月早く来るというのは、花が咲くだけではない。


 雪は溶ける。


 川は増える。


 湿原は沈む。


 虫も植物も動き始める。


 人間だけが「まだ冬だから」と言って待ってくれるわけではない。


 季節というものは、思っていたよりずっと忙しい。


 環暦士になって何年も経ってから気づくことではない気もする。


「塔へ戻ります」


 リディアが言う。


「今出たところだけど」


「地上測定です」


「休まないの?」


「あなたは休みたいんですか?」


 聞かれると困る。


 休みたい。


 ものすごく。


 できれば温かい部屋で寝たい。


 だが、十三月が数十分ごとに一日進んでいる最中に「眠いので明日」は、さすがに職業倫理が許さない。


 たぶんグレンも許さない。


「……行こう」


「はい」


「ちょっと嬉しそうなの何?」


「気のせいです」


 最近この言葉を使う人間が多い。


◆


 塔の一階へ戻ると、グレンは通信器の前にいた。


 北方支局とのやり取りはすでに始まっている。


【第四十八季塔旧設備にて十三月季環確認】

【機能表示 残季回収/遷季調整/次季配分】

【旧暦基準器 十三月圧縮運転中】

【十三塔共通同期線確認】

【表示上同期起点 第四十一季塔】


 最後の一文だけ見ても、胃に悪い。


 レイは自分で何か食べた覚えもない腹の辺りを押さえた。


「支局は?」


「判断保留」


 グレンが答える。


「現時点では停止命令なし。旧設備への大規模操作禁止は継続だ」


「まあ、そうなるか」


「中央にも上げた」


「返事は?」


「来てない」


「遅いな」


「送ってから3分だ」


 人間の感覚まで壊れてきたらしい。


 リディアは壁際の記録台へ行き、地下で取った値を書き写し始める。


「十三月季環の遷季段階は、地下を出た時点で四でした」


「ああ」


「日付表示は三日。ただし圧縮運転のため、日付が実時間を示しているとは考えにくい」


 レイも横から紙を見る。


「一日ごとに何かやってる?」


「その可能性があります」


「三日になった時、春が上がった」


「正確には、二日から三日へ移行した約4分後に0.1倍上昇しています」


「細かいな」


「記録なので」


 リディアは別の紙を出す。


「地下へ入る前の値と照合します。十三月一日から二日へ移ったと推定される時間帯にも、春季素の上昇が一度あります」


「じゃあ日付が変わるたびに春を増やしてる?」


「まだ二例です」


「二回同じなら怪しくない?」


「怪しいです。しかし規則とは言いません」


 グレンがこちらを見る。


「そこはリディアが正しい」


「分かってるよ」


 分かってはいる。


 環暦士という職業は、目の前で同じことが二回起きても三回目までは疑えと言ってくる。


 慎重なのは大事だ。


 でも、たまには世界の方から分かりやすく答えを出してほしい。


 そんなことを考えていると、塔の奥から金属音がした。


 カチン。


 三人が同時に止まる。


 レイには聞こえた。


 地下。


 暦基準器。


 歯車が一段進んだ。


「……四日」


 言うより先に、リディアが時計を見る。


「時刻記録します」


 その直後。


 塔内の季素計が一斉に揺れた。


「春季素上昇!」


 別の環暦士が声を上げる。


「2.9倍!」


 レイとリディアが顔を見合わせた。


「三回目」


「はい」


 今度はリディアも否定しなかった。


 外から、何かが窓へ当たった。


 ぱた。


 小さい。


 レイが窓へ近づく。


「……虫?」


 灯りに引かれたらしい羽虫が、ガラスの外を飛んでいた。


 冬の夜に。


 一匹ではない。


 二匹。


 三匹。


 街灯の周りにも、小さな影が集まり始めている。


「起こしてる」


 レイが言った。


「春を?」


「たぶん」


 冬季素を春季素へ渡しているだけではない。


 植物。


 雪解け。


 虫。


 湿原。


 街全体が、段階を踏んで春へ押し出されている。


「旧十三月の一日ごとに、遷季処理を一段ずつ実行してる?」


 リディアが地下の表示を思い出すように呟く。


「圧縮運転なら、本来一月かけて行う処理を短時間で順番に進めている可能性はあります」


「これ何日まである?」


 レイが聞く。


 リディアの手が止まった。


「十三月が通常の一月なら、現在の月と同程度の日数があった可能性はありますが」


「分からない?」


「資料がありません」


 レイはグレンを見る。


「師匠の師匠、何か言ってなかった?」


「十三月の日数まで聞いてない」


「使えないな」


「殴るぞ」


「すみません」


 素直に謝った。


 グレンの師匠に関する話は、冗談にしていいところと悪いところがまだ分からない。


「でも」


 グレンが続ける。


「十三月十四日、という日付は聞いた覚えがある」


 レイが顔を上げた。


「十四日?」


「ああ」


「何の話で?」


「覚えてない」


「そこ大事じゃない?」


「俺が子供の頃だ。昔の暦の話をされた時だったと思う」


「それ以上は?」


「ない」


 グレンの顔を見る。


 今回は隠しているようには見えなかった。


 本当にそれだけなのだろう。


「少なくとも十四日まではあった」


 リディアが記録へ書き込む。


「現在四日。進行間隔が同じなら――」


「待って」


 レイが言った。


「同じじゃない」


「何がです?」


「音」


 地下へ耳を澄ませる。


 暦基準器の歯車。


 一日から二日。


 二日から三日。


 三日から四日。


 間隔が少しずつ短くなっている。


 最初はもっと長かった。


「早くなってる」


 リディアが時刻記録を並べる。


「……本当ですね」


 一日から二日。


 約51分。


 二日から三日。


 43分。


 三日から四日。


 34分。


「圧縮率が上がってる?」


「あるいは後半ほど処理量が少ない」


「どっちにしても」


 レイは時計を見る。


「十四日まで今夜中に行くかもしれない」


 グレンがすぐ通信器へ向き直る。


「支局へ追報。圧縮運転の進行速度上昇。十三月十四日到達の可能性あり」


「十四日に何があるか分からないのに?」


「分からないから送る」


「なるほど」


 そういうところはさすが一級だ。


 情報が足りないなら、情報が足りないことまで報告する。


 自分なら「まだ分からないし後で」で抱え込んでいたかもしれない。


 報告書が増える理由が少し分かった。


 好きにはなれない。


◆


 十三月五日。


 春季素、3.0倍。


 街の南側で積雪崩れが発生。


 被害なし。


 十三月六日。


 3.1倍。


 東水路の水位上昇。


 街道管理所が水門を一段開放。


 十三月七日。


 変化は春季素だけではなかった。


「夏?」


 レイは季素計を二度見した。


 針が、ごく僅かに夏側へ振れている。


 リディアも自分の計器を確認する。


「0.08倍。微量ですが、あります」


「春の次だから?」


「断定はできません」


「分かってる」


「先に言われました」


「学習するからな」


 レイは少し得意だった。


 何に対して得意になっているのかは分からない。


 地下の十三月季環へ耳を澄ませる。


 春だけではない。


 夏。


 秋。


 冬。


 四つ全部に細い響きが伸び始めている。


「……違う」


「何が?」


 グレンが聞く。


「春へ進めてるだけじゃない」


 レイは塔の中心へ手を置く。


「四季全部、触り始めてる」


 十三月。


 残季回収。


 遷季調整。


 次季配分。


 単純に冬から春へ渡す装置ではない。


 一年分の四季を一度集め、次の巡りに合わせ直す。


「一年の調律」


 口から出た。


 リディアがこちらを見る。


「調律?」


「音で考えるなら」


 レイは目を閉じたまま続ける。


「冬を春に変えるだけじゃない。春も夏も秋も冬も、一回全部聞いて、ずれてるところを合わせ直してる」


「それなら〈残季回収〉とも整合します」


「一年で余った季節を回収して、次の年へ配り直す」


 グレンが低く言う。


「十三月は、年そのものを整備する月だったのか」


 レイは目を開いた。


「環暦士みたいだな」


「何が」


「十三月」


 壊れた季節を直して、次へ渡す。


 自分たちがやっていることと似ている。


 むしろ、自分たちの仕事の方が十三月の代用品なのかもしれない。


 そう考えると少し腹が立つ。


 職業の起源が機械だった、みたいで。


「何で嫌そうなんですか」


 リディアが聞く。


「仕事取られた感じする」


「170年以上前の設備に?」


「そう言われると俺が小さい人間みたいじゃん」


「自覚があるならいいと思います」


「仲良くなれそうにないな」


「同感です」


 でも、さっきより言い方が少し柔らかかった。


 たぶん。


◆


 十三月八日を過ぎた頃、北方支局から返答が来た。


【停止操作継続禁止】

【十三月季環を現状維持】

【環暦同期線への操作禁止】

【各段階の変化を記録せよ】

【中央調査官 明朝到着予定】


「明朝」


 レイが読む。


「遅くない?」


「馬が飛べるなら早くなる」


 グレンが言った。


「飛べない?」


「お前の馬で試すか?」


「やめとく」


 問題は、中央の人間が着く前に十三月がどこまで進むかだ。


 八日。


 九日。


 十日。


 間隔はさらに短くなる。


 外の春季素は3.2倍で頭打ちになった。


 その代わり、夏、秋、冬の値が少しずつ揺れ始める。


 街では奇妙なことが続いた。


 若葉を出した木の一部が、数分だけ紅葉した。


 凍っていた井戸の縁に春の花が咲いた直後、その隣だけ霜が降りた。


 夜だというのに鳥が鳴き、すぐ静かになった。


 四季が街の上を行ったり来たりしている。


 季節が壊れている、というより。


「試してるみたい」


 レイが窓から外を見る。


「何をです?」


「全部」


 春を出す。


 少し夏を混ぜる。


 秋へ振る。


 冬へ戻す。


 音を聞きながら何度も微調整する。


 自分が歯車を合わせる時と同じだった。


「十三月季環が、ノルクの一年を調整してる」


「圧縮して」


「ああ」


 本来なら一月かける作業を、数時間で。


 街にとって迷惑という言葉では足りない。


 工具を直す時に、金槌を百倍速で振るようなものだ。


 たぶん工具も指も無事では済まない。


「止めるべきでは?」


 リディアがグレンを見る。


「さっきまで止めるなって言ってたのに」


「状況が変わっています」


 返答は早い。


「圧縮運転がこのまま進めば、人間側の環境が追従できません。機構が正常でも、街にとっては異常です」


 グレンは腕を組んだ。


「分かってる」


「では」


「止め方が分からん」


 それだけだった。


 正しい。


 十三月季環を止めれば何が起きるか。


 遷季途中で止まれば、春が残るのか。


 四季の配分が崩れるのか。


 十三塔全体へ影響するのか。


 誰も知らない。


「機械として正しいからって、人間に正しいとは限らない」


 レイが呟く。


 リュネ村で考えたことだった。


 今回も同じだ。


 ただ規模が大きくなっている。


「なら人間側に合わせる方法を探す」


 グレンが言った。


「壊さずにな」


 難しい注文だ。


 でも、昨日よりはその意味が分かる。


◆


 十三月十一日。


 日付間隔、19分。


 十三月十二日。


 15分。


 塔の全計器が一度だけ大きく振れた。


「来る」


 レイが言った。


「何が?」


「分からない」


 自分でも嫌になる答えだった。


 でも聞こえる。


 十三番目の音が、これまでより深くなっている。


 カァン――。


 遠い。


 第四十一季塔。


 そのさらに向こう。


 第四十七。


 他の塔。


 十三基全部ではない。


 だが、いくつもの十三番目の音が重なり始めていた。


「同期が強くなってる」


 リディアが外部同期線の計器を見る。


「信号量、約3倍」


「十三日になる」


 レイには分かった。


 理由は説明できない。


 ただ音が、次の段階へ入ろうとしている。


 カチン。


 地下から響く。


【十三月 十三日】


 同時に、第四十八季塔の十二の月輪が一斉に動いた。


「全輪回転!」


「停止させるな!」


 グレンの声が飛ぶ。


 十一月輪。


 十二月輪。


 止まっていた二枚まで回る。


 だが暴走ではない。


 一月輪から十二月輪までが、一度だけ順番に光った。


 一。


 二。


 三。


 十二。


 そして。


 光が消える。


「……十三番目は?」


 リディアが聞く。


 レイは地下へ耳を澄ませた。


「まだ」


 十三番目だけが鳴っている。


 今までより、ずっとはっきり。


 カァン――。


 胸の奥まで響く。


 十三日。


 グレンが昔聞いたという日付まで、あと一つ。


「次、何分?」


 レイが聞く。


 リディアは時刻を見る。


「これまでの短縮率なら10分前後」


「中央、間に合わないな」


「はい」


 10分。


 長いようで短い。


 短いようで、何かを壊すには十分すぎる。


 グレンが地下へ向かう階段を見る。


「全員、下へ行くぞ」


「操作する?」


「必要なら」


「停止命令は?」


「止めるな、だ」


 グレンがレイを見る。


「だから止めずに手を入れる方法を探す」


 無茶を言う。


 でも、その無茶をやるのが一級環暦士なのだろう。


 自分もそのうちやらされる。


 嫌な未来が見えた。


「リディア」


「準備できています」


 もう工具と計器を持っている。


 早い。


「レイ」


「俺も」


「寝るなよ」


「この状況で寝れたら才能だろ」


 三人で階段を降りる。


 十三月季環の部屋へ入った時、表示はまだ十三日のままだった。


 中央環はこれまでになく明るい。


 十二番目。


 十三番目。


 一番目。


 その三枚だけではない。


 十三枚すべてに、ごく薄い光が走っている。


 リディアが暦基準器へ駆け寄る。


「残り……」


 言葉が止まった。


「何?」


「進行速度がまた上がっています」


 レイも表示を見る。


 歯車が回っている。


 速い。


 さっきまでの比ではない。


「10分じゃない」


「何分?」


「3分程度です」


「急に?」


「分かりません!」


 初めてリディアの声が乱れた。


 グレンが中央環へ手を当てる。


「レイ、音!」


「聞いてる!」


 十三番目。


 その奥。


 遠い鐘。


 十二。


 いや。


 違う。


 数えている。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 遠くのどこかで、鐘が重なっている。


「グレン」


「何だ!」


「鐘が――」


 カチン。


 暦基準器が止まった。


 レイの声も止まる。


 表示板が切り替わる。


【十三月 十四日】


 その文字を見た瞬間。


 第四十八季塔の鐘が鳴った。


 ゴォン――。


 一度。


 続けて二度目。


 ゴォン――。


 レイは顔を上げた。


 地下なのに、鐘の音がはっきり聞こえる。


 三度。


 四度。


 五度。


 止まらない。


 グレンが表示を睨む。


「誰も鳴らしてないな」


「はい」


 リディアの声が硬い。


 八度。


 九度。


 十度。


 十一度。


 十二度。


 そこで一瞬、間が空いた。


 レイの背中を、理由の分からない悪寒が走った。


 十二回なら。


 ここで終わる。


 終わるはずだ。


 だが。


 ゴォン――。


 十三度目の鐘が鳴った。


 十三月十四日。


 その日付が何を意味するのか、レイはまだ知らなかった。

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