第32話 地図の空白
中央調査官アーヴェル・ノインの顔から血の気が引いたのは、一瞬だった。
すぐに平静を取り戻したが、レイは見逃さなかった。
グレンも当然見逃していない。
「知ってるな」
短い一言だった。
アーヴェルは答えず、資料室の入口を振り返る。
商業組合の職員が廊下の向こうで帳簿を運んでいる。こちらの話までは聞こえていないだろうが、男はそれを確認してから扉を閉めた。
「ここでは話せません」
「なら話せる場所へ行くぞ」
「アルディス一級環暦士」
「一級でも開示できないんだったな」
「そう申し上げました」
「じゃあ今度は俺の資格じゃなく、現場の話をしよう」
グレンが古地図を指で叩く。
「十三月季環が起動した。主暦から応答があった。しかも位置情報は欠損、表示は移動中。うちの弟子はその信号源を聞ける」
「実務生です」
アーヴェルの訂正に、レイは眉を寄せた。
「そこ今いる?」
「重要です」
「俺としては主暦が動いてる方が重要なんだけど」
「どちらも重要です」
「中央の人って面倒だな」
「レイ」
グレンに名前だけで止められた。
まだ何もしていないのに。
いや、少ししたか。
最近、自分でも境界が曖昧になってきた。
アーヴェルはレイを一度見てから、ゆっくり息を吐いた。
「第四十八季塔へ戻ります。地下設備と記録を私自身で確認した後、必要と判断した範囲までは説明します」
「全部じゃない?」
「中央局の機密指定は、私一人の判断で解除できません」
「それでも話すんだ」
「状況が報告書の内容通りなら、です」
グレンが僅かに口元を上げた。
「それでいい」
「ただし、封鎖区域へ向かう許可とは別です」
「まだ行くとは言ってない」
レイは横からグレンを見る。
絶対行く顔をしている。
自分もたぶん似たような顔をしているので、黙っておいた。
◆
第四十八季塔へ戻る道すがら、アーヴェルはほとんど喋らなかった。
代わりにリディアが歩きながら状況を説明している。
「十三月季環の圧縮倍率は現在31パーセントで固定。全季補正と次季配分は完了していますが、【次環暦 移行待機】から進んでいません」
「固定は誰が?」
「アルディス一級環暦士と私、それにレイ実務生です」
「外部信号への遮断は?」
「していません。機械的な上限だけ設けています」
「正解です」
アーヴェルが即答する。
グレンが横目を向けた。
「見てもいないのに?」
「十三塔共通環路へ直接干渉した場合の影響が読めません。少なくとも現段階では、切断より局所制限の方が危険が少ない」
「中央にもまともな奴いるんだな」
「どういう意味ですか」
「そのままだ」
アーヴェルは無視した。
強い。
レイなら一言返したくなる。
「主暦という名称は、中央局では現役の用語なんですか?」
リディアが聞いた。
「いいえ」
「では、どうしてご存じなんです?」
「それは確認後に」
綺麗に閉じた。
リディアはそれ以上聞かなかったが、歩幅が少し速くなった。
気になるらしい。
何となく分かる。
知らない装置を前にした時のリディアは、普段よりほんの少し人間らしい。
「何ですか」
「何でもない」
「今こちらを見ましたね」
「歩いてたら視界に入るだろ」
「昨日からそれが多いので」
「観測しすぎじゃない?」
「仕事です」
便利な言葉だ。
自分も使いたい。
フィアに「また無茶したんですか」と聞かれたら、仕事です、と答えてみよう。
たぶん通らない。
むしろ怒られる。
そこまで想像して、レイは少しだけ口元を緩めた。
「何ですか」
「だから何でもないって」
本当に観測しすぎだった。
◆
アーヴェルが地下へ入ってから、態度を変えるまで30分も掛からなかった。
十三月季環。
十三枚の古い輪。
【十三月十四日】
【次環暦 移行待機】
そして。
【主暦応答 確認】
【位置情報欠損】
【主暦 移動中】
最後の表示を見たアーヴェルは、しばらく何も言わなかった。
「偽装表示の可能性は?」
やがて出たのは、それだった。
「低いです」
リディアが答える。
「表示系だけではなく、環暦同期線から継続的な信号があります」
「発信元は」
「特定できません。ただし第四十一、第四十七、第四十八の記録から、相対位置の変化は確認しています」
リディアが3枚の記録紙を並べる。
アーヴェルは一枚ずつ確認した。
数字を見る速度が速い。
肩書きだけの人間ではないらしい。
「レイ・セイン」
突然呼ばれた。
「はい」
「あなたは主暦の音を直接聞いたと」
「主暦かどうかは知らない。十三基の向こうから来る、別の大きな音がある」
「位置は?」
「今は北東」
「距離は」
「分からない」
「どの程度の誤差で方角を――」
「分からない」
レイは先に言った。
「数値にはできない。近づいてるとか、右へずれたとか、そのくらい」
アーヴェルの眉が僅かに動く。
リディアが横から補足した。
「彼の感覚だけではありません。同期信号の到達差も北東方向への移動と矛盾しません」
「あなたが保証するのですか?」
「保証はしません」
即答。
「観測結果が一致している、と申し上げています」
アーヴェルがリディアを見る。
少しだけ間があった。
「……ケイル第二級。あなたは環暦院の第112期でしたね」
「はい」
「主席次席争いをしていたと記憶しています」
「3位です」
「そこまで覚えていませんでした」
「では言わないでください」
レイは思わずリディアを見る。
「3位だったの?」
「今関係ありますか?」
「ちょっとある」
「ありません」
なるほど。
数字にうるさいわけだ。
いや、3位と数字にうるさいのは関係ないか。
でも本人の前で言えば長くなりそうなので、心の中だけにしておく。
アーヴェルは表示へ戻った。
「……分かりました」
ようやく言う。
「中央局にある旧資料の一部を共有します」
レイの背筋が伸びる。
グレンは何も言わなかった。
最初からそこまで引き出すつもりだったのだろう。
「まず、主暦は季塔ではありません」
アーヴェルが言った。
「十三基の季塔を統括する、旧環暦系統の基準装置です」
「時計みたいなもの?」
「時計だけではありません。各季塔から季素残量、月輪の誤差、季節遷移の状態を集め、それぞれへ補正基準を返していたとされています」
レイは地下の十三月季環を見る。
「一年の調律をまとめる中心?」
「その表現が近いでしょう」
「じゃあ今の中央局みたいなものか」
「機械と組織を同列にしないでください」
「仕事は似てる」
「……否定はしません」
少し考えてから認めた。
リディアなら即座に「違います」と言いそうなので、中央の人間にも種類があるらしい。
「場所は?」
グレンが聞く。
アーヴェルは数秒黙った。
「不明です」
「封鎖区域があるのに?」
「あそこにあるのは主暦ではありません」
「なら何だ」
「旧主暦観測所です」
古地図に残っていた文字。
【旧暦観測所附属――】
あれはやはり主暦に関係していた。
「主暦そのものを観測する場所?」
レイが聞く。
「位置、同期状態、各季塔との接続を監視していた施設です」
「何で地図から消した」
「危険だからです」
アーヴェルの声が少し硬くなる。
「約170年前、その一帯で大規模な地盤沈降が発生しました」
レイは黙る。
「季脈の崩壊も同時に記録されています。観測所と周辺施設の大半が地中へ沈み、旧街道も寸断された」
「人は?」
「正確な数は残っていません」
「それ、死者数が分からないって意味?」
「……はい」
さっきまでの軽い気分が消えた。
アーヴェルは続ける。
「中央局の前身組織は事故後、区域を閉鎖。現在の環暦局が成立した後も指定は引き継がれています」
「170年間ずっと?」
「完全封鎖ではありません。過去に数度、調査隊が入っています」
グレンの目が細くなる。
「最後は」
「41年前です」
「結果は」
アーヴェルは答えるまで少し時間を置いた。
「撤退です」
「理由は」
「方角が合わなくなったのです」
レイは眉を寄せた。
「何それ」
「記録そのままです」
アーヴェルは懐から薄い手帳を出す。
どうやら中央資料の抜粋を持ってきていたらしい。
「調査隊は旧採掘道から区域へ入りました。最初の2日は問題なし。3日目から磁針、星測、季脈計測の方角が一致しなくなった」
「道に迷った?」
「地図と実際の地形まで一致しなくなった、とあります」
また新しい謎か。
そう思ってしまった自分に、レイは少し嫌な顔をした。
今は謎を増やしたいわけではない。
主暦を追いたいだけだ。
「季節の異常で地形が変わった可能性は?」
リディアが聞く。
「検討されています。ただし結論は出ていません」
「死者は?」
「二名。転落事故です」
「それで封鎖を強めた」
「はい」
妥当だった。
少なくとも、中央が何か悪いことを隠すために立入禁止にした、という単純な話ではなさそうだ。
少しだけ残念な気もする。
悪役がいた方が話は簡単だ。
壊れた設備と百年以上前の制度は、殴っても直らない。
「主暦が沈んだって記録は?」
レイが聞く。
アーヴェルの目が変わった。
「どこでそれを?」
「グレンの師匠」
言った後、グレンを見る。
止められなかった。
「『主暦が沈んだから、十三月は終わらなかった』って言ったらしい」
アーヴェルは完全に黙った。
「中央にもあるんだな」
グレンが言う。
「同じ文言が」
長い沈黙のあと、アーヴェルは小さく頷いた。
「似た記述があります」
「見せろ」
「原本は中央です」
「内容は」
「事故直後の報告書に一行だけ」
アーヴェルは記憶を確かめるように目を伏せた。
「『主暦沈降。終環不成立。十三月継続』」
レイの指先が僅かに冷えた。
「終環って?」
「現行用語ではありません。ただ、文脈からすれば年の終了処理を指すと考えられています」
「十三月継続」
リディアが繰り返す。
「終われなかった」
レイが呟く。
十三月十四日。
全季補正。
次季配分。
その後、主暦と同期して次の環暦へ移る。
170年前は、その主暦が沈んだ。
だから最後の処理ができず、十三月が終わらなかった。
そこまでは一本に繋がる。
「でも今は返事した」
レイが言う。
「主暦が」
「そうですね」
「しかも動いてる」
「表示を信じるなら」
「音も動いてる」
アーヴェルは反論しなかった。
「170年前に沈んだ主暦が、今また動き出した」
口にすると、さすがに変だった。
巨大な装置が地面の下をずるずる移動している光景が頭に浮かぶ。
嫌だ。
非常に嫌だ。
土の中から出てきたらもっと嫌だ。
「主暦ってどれくらい大きい?」
「分かりません」
「そこも?」
「形状自体が記録に残っていません」
「本当に?」
「正確には、公開可能な記録には」
「やっぱ何かあるじゃん」
アーヴェルは眉間を押さえた。
「あなた、いちいち引っ掛かりますね」
「気になるから」
「実務生のうちはもう少し――」
「そこ関係ある?」
「あります」
「絶対ないと思う」
「レイ」
「はい」
グレンに止められた。
今日は多い。
◆
地上へ戻ると、すでに昼前だった。
ノルクの空は薄曇り。
街の雪はまだ残っているが、昨日のような急激な融雪は収まっている。
東湿原からも、残っていた荷隊の退避が始まったと連絡が来ていた。
少なくとも街は、今すぐ沈みそうではない。
それだけでも助かる。
問題は、別の何かが移動中なことだ。
「封鎖区域への立入申請を出します」
塔の会議室で、アーヴェルが言った。
レイは顔を上げた。
「行けるの?」
「まだ許可は出ていません」
「でも申請はする」
「主暦の移動が事実なら、旧観測所に残る設備から位置を追跡できる可能性があります」
「中央調査官としては正しい判断だな」
グレンが言う。
「先ほどまで行くなと言っていたのは撤回します」
「切り替え早いな」
「条件が変わりましたから」
レイとグレンが同時にリディアを見る。
リディアが嫌そうな顔をした。
「何ですか」
「いや」
「何でもない」
「二人ともやめてください」
アーヴェルだけが意味を分かっていない。
少し面白かった。
「誰が行く?」
グレンが聞く。
「私です」
アーヴェルが答える。
「中央局の封鎖区域なので、責任者として同行します」
「俺も行く」
「当然です。主暦と十三月季環の両方を知る一級環暦士が必要です」
「レイは」
「……本来なら残すべきです」
「え」
レイの声が出た。
アーヴェルが見る。
「第三級実務生を41年前に死者を出した封鎖区域へ連れて行く判断を、簡単にできると思いますか」
「音聞けるけど」
「それが問題です」
「便利じゃなくて?」
「未知の季音に引かれて危険区域へ深入りする可能性があります」
言葉に詰まった。
否定したい。
かなり否定したい。
でも過去の自分が次々と頭に浮かぶ。
壁の向こう。
古い鍵。
地下設備。
氷。
今日に至っては湿原へ落ちた。
実績が強い。
自分の味方をする過去が一つもない。
「レイは連れていく」
グレンが言った。
アーヴェルが顔を向ける。
「理由は」
「今、主暦の位置を直接追えるのはこいつだけだ」
「制御できる保証は?」
「俺がいる」
「それを保証と呼ぶには、弟子への評価が少々――」
「俺が止める」
グレンは淡々としていた。
「音を聞く役と、止める役は分ける。昔からそうしてる」
レイは少しだけ黙った。
昔から、子供の頃から、確かにそうだった。
何か聞こえると、自分は近づく。
グレンはまず周りを見る。
崖があれば襟首を掴み、壊れた季具があれば先に電路を落とした。
当時は邪魔だと思っていた。
今もたまに思う。
でも、あれがなければ多分どこかで死んでいる。
「私も同行します」
リディアが言った。
今度はアーヴェルがすぐに首を振る。
「第四十八季塔の現地統括が空になります」
「副統括がいます」
「十三月季環は」
「現在は安定しています。圧縮倍率31パーセント、移行待機状態。私がいなければ維持できない設備ではありません」
「危険区域です」
「知っています」
「過去の調査記録も全て読めていない」
「だから測定者が必要でしょう」
リディアは机上の地図を指す。
「レイが音を聞く。アルディス一級が設備判断をする。ノイン調査官が旧資料と区域権限を持つ。そこに測定値を取る人間がいません」
アーヴェルが黙る。
「私が適任です」
言い切った。
レイは横顔を見る。
何となく分かってきた。
リディアは危ない場所が好きなわけではない。
謎が好きというだけでもない。
必要だと思った仕事から、自分だけ外されるのが嫌なのだ。
「怖くないの?」
思わず聞いた。
リディアがこちらを見る。
「怖いですよ」
意外な答えだった。
「そうなんだ」
「怖くない人間に見えますか?」
「ちょっと」
「失礼ですね」
「でも行くんだ」
「必要なので」
それだけだった。
格好つけるでもない。
怖いから行かない、でもなければ、怖くないから行く、でもない。
必要だから行く。
単純だった。
少しだけ羨ましい。
自分はたぶん、必要だからだけでは済まない。
聞こえると気になる。
見つけると触りたい。
壊れていると直したい。
そのせいで何度も余計なところまで首を突っ込んだ。
職業適性なのか性格の欠陥なのか、最近分からなくなってきている。
「分かりました」
アーヴェルが折れた。
「ただし4名だけでは行きません。案内役と警護を付けます」
「警護?」
レイが聞く。
「旧採掘道には野生獣も出ます」
「なるほど、それは助かる」
「剣は?」
「一応使える」
「程度は」
「死なない程度」
「非常に曖昧ですね」
「本職じゃないし」
リュネ村の狼を思い出す。
季塔の近くなら、設備を使える。
でも山の中で季具も何もなければ、自分はただ工具を持った20歳だ。
そこは認めた方がいい。
「警護はこちらで手配します」
アーヴェルが言う。
「出発は許可が下り次第。早くても明朝です」
「主暦は待ってくれるかな」
「待たないでしょうね」
リディアが答える。
「だよな」
レイは窓の外を見る。
北東。
山の向こう。
今も音は、僅かずつ位置を変えている。
◆
午後、レイは塔の裏手で工具を確認していた。
共鳴棒、絶縁手袋、短い導線、季素計、携帯灯、補修金具。
使うか分からないものまで一度出し、必要そうなものだけ戻す。
山歩きで工具鞄を重くしすぎると後悔する。
過去に何度も学んだ。
それでも最後には少し多くなる。
工具を置いていくのは、妙に落ち着かない。
衣類を一枚減らす方がまだましだ。
鞄の内側へ手を入れたところで、紙に指が触れた。
フィアの書いた紙。
【ちゃんと食べてください。無茶もしないこと。フィア】
「……無茶」
声に出す。
明朝から、170年間封鎖されていた山へ入ろうとしている。
かなり無茶に近い。
でも仕事だ。
これは仕事。
仕事なら仕方ない。
そういう理屈でフィアが納得する姿を想像してみる。
無理だった。
たぶん黙ってこちらを見る。
あれが一番効く。
「何を見てるんです?」
「うわ」
紙を反射的に伏せた。
リディアが数歩先に立っている。
「人の後ろに無音で立つなよ」
「普通に歩いてきました」
「声掛けて」
「今掛けました」
正しいのに腹が立つ。
「それ、手紙ですか?」
「違う」
「では何です?」
「紙」
「手紙も紙です」
「そうだな」
「誰から?」
「何で聞くの」
「隠したので」
レイは紙を鞄へ戻す。
「村の人」
「リュネ村?」
「ああ」
それ以上は言わない。
リディアも、意外と追及しなかった。
「明日の装備確認です」
彼女が紙を一枚渡す。
持ち物一覧だった。
「細か」
「不足してからでは遅いので」
「縄3本もいる?」
「旧調査隊の死者は転落です」
何も言えなくなった。
「持ちます」
「はい」
「俺が?」
「私は測定器があります」
「グレンは?」
「一級です」
「資格で荷物軽くなるの?」
「本人に聞いてください」
聞けばたぶん「年長者を労れ」と返ってくる。
絶対に聞かない。
レイは一覧を見る。
その一番下に、食料と水。
「食料、そんなに?」
「予定は一泊です。ただし二泊分持ちます」
「遭難前提?」
「余裕です」
「言い方変えるとすごくまともだな」
「最初からまともです」
リディアがレイの工具鞄を見る。
「それと、工具は減らしてください」
「無理」
「即答ですか」
「何が必要になるか分からない」
「だからといって全部持つ必要はありません」
「全部じゃない」
「何割です?」
「……七」
「減らしてください」
「六」
「交渉していません」
フィアとは違う意味で強い。
レイは渋々、予備の鉗子を一本抜いた。
「これで」
「一つだけですか?」
「大きな一歩」
「小さいです」
さらに一本。
「これ以上は無理」
「では私が確認します」
「触るな」
反射的に鞄を抱えた。
リディアの手が止まる。
一瞬、空気が変わった。
「あ」
レイも遅れて気づく。
「……悪い」
「いえ」
リディアは手を引いた。
「工具に触れられるのが嫌なんですか?」
「ちょっと」
「壊されたことが?」
「俺が壊した」
そこまで言って、なぜ話しているのかと思う。
でも、まあいいか。
「14の時にグレンの共鳴鉗子を壊し、3日かけて直した」
「怒られた?」
「怒られなかった」
「それで?」
「その方が怖かった」
リディアが少し考える。
「分かる気がします」
「分かるの?」
「期待されている相手に何も言われない方が、自分で考える時間が増えますから」
予想していなかった返事だった。
レイは彼女を見る。
「環暦院で何か壊した?」
「成績を一度」
「物じゃないじゃん」
「似たようなものです」
「3位だったのに?」
「だからです」
それ以上は話さなかった。
レイも聞かなかった。
人には、触られたくない工具みたいな話があるのだろう。
リディアは少し離れた位置から鞄を指す。
「では、自分であと二つ減らしてください」
「話いい感じに終わったのに?」
「荷物は別です」
「厳しいな」
「明日、山であなたの荷物を持たされる方が嫌なので」
「絶対持ってくれない?」
「怪我をしたら持ちます」
「優しい」
「怪我をしないでください」
結局フィアと同じことを言われた。
レイは鞄の中の紙を思い出しながら、もう一本だけ工具を抜いた。
◆
夕刻。
中央局から正式な返答が届いた。
【旧北東主暦観測区域】
【限定立入許可】
条件付き。
設備の停止・破壊禁止。
地下構造への単独進入禁止。
主暦に関する物品を発見した場合は現状保存。
そして
【主暦信号の追跡を最優先とする】
「許可出たな」
グレンが紙を畳む。
「早かった」
レイが言う。
「主暦が動いてるなんて報告を受けたら、中央も寝てられん」
「俺たちも寝てないけど」
「今日は寝ろ」
「またそれ」
「明日は山だ」
「分かってる」
リディアも頷く。
「出発は日の出前です」
「早くない?」
「旧採掘道の入口まで馬で2時間。その先は徒歩です」
「どれくらい歩くんだ?」
「地図通りなら5時間前後」
「地図通りなら」
嫌な言葉が付いた。
41年前、その地図と地形が一致しなくなった場所。
アーヴェルの話では、今回も同じことが起こらない保証はない。
「警護は?」
「中央側の護衛が一名。それと現地案内役を探しています」
「誰?」
「まだ決まっていません」
グレンが窓を見る。
「古い採掘道なら、街の猟師か鉱夫がいい」
「手配中です」
レイも北東を見る。
日が沈みかけている。
山の影が黒く重なっていた。
その向こうから。
カァン――。
また聞こえた。
昼より近い。
「グレン」
「ああ?」
「主暦」
全員の視線が集まる。
「止まった」
「何?」
レイはもう一度耳を澄ませる。
さっきまで少しずつ北東へずれていた音が、動いていない。
一点。
固定されている。
「場所は?」
リディアがすぐに聞く。
レイは窓の向こうを指した。
「昨日の楕円辺り」
旧主暦観測所。
170年前に地盤ごと沈み、今は地図から消されている場所。
そこへ向かっていた音が止まった。




