第27話 沈む道
東湿原へ続く道は、街を出てすぐに泥へ変わった。
馬が一歩進むたび、ぬかるんだ地面から水が跳ねる。
昨日までここは雪道だったらしい。
今は道端の雪が崩れ、その隙間から若草まで顔を出している。
冬物の外套を着たまま春の泥を浴びるというのは、どうにも季節に馬鹿にされている気分だった。
「速度を落としてください」
前を行くリディアが振り返らずに言った。
「落としてる」
「今の場所、馬の脚が二度滑りました」
「見てたの?」
「聞いていました」
レイは少しだけ眉を寄せた。
季音を聞く自分が言うのも何だが、この女も妙なところを拾う。
腰には測定器が三つ。走りながらでも周囲を確認し、伝令から道の状態を聞き、ついでにこちらの馬の足運びまで数えている。
歩く計器か。
本人に言えば、たぶん否定する前に「計器は歩きません」と訂正される。
言わない方がいい、面倒だから。
「この先です!」
先導する伝令の男が叫んだ。
街道が少し下り、その向こうで景色が開ける。
東湿原だった。
夏なら草と泥と浅い水が広がる土地らしいが、今は白と茶色が入り混じっている。
遠くでは雪が残っている。
その手前には黒い水が顔を出し、さらに近くには薄い氷が陽を反射していた。
そして湿原の中央を一本の道が横切っている。
道といっても石畳ではない。
凍った湿地そのものだ。
冬の間だけ現れる〈氷路〉。
何十台もの荷馬車がそこを通り、北と南を結ぶ。
今、その道が溶け始めていた。
「……あれか」
レイが目を細める。
数百メートル先。
荷馬車が何台も連なって止まっている。
先頭の一台は大きく傾き、右側の車輪が氷を突き破っていた。
人が動いている。
馬もいる。
少なくとも、まだ全員が沈んだわけではない。
そう思った瞬間、嫌な音がした。
ミシィ――。
遠くからでも聞こえた。
氷の割れる音。
「急ぎます」
リディアが馬を進める。
「落ちるなよ」
「誰に言っています?」
「俺含め全員」
自分が一番怪しい気もする。
昨夜2時間しか寝ていない上に、朝から馬に揺られ、そのまま春に溶かされた湿原へ突入。
順調だ。
何がとは言わない。
◆
氷路の入口には、背丈ほどの黒い杭が立っていた。
黒柳の杭。
ドミトの地図にあった目印だ。
そこから先へ馬を入れることはできなかった。
伝令と救助隊の男たちが馬を繋ぎ、そりと長い板を降ろす。
レイも地面へ降りた。
足元が嫌な柔らかさをしている。
「ここはまだ凍っています」
リディアがしゃがみ、氷へ細い測定棒を差した。
「厚さ42センチ。上層の7センチが融解中」
「十分?」
「人が歩くだけなら」
「荷馬車は?」
「場所によります」
つまり信用するな、ということだ。
分かりやすい。
レイは黒柳の杭へ手を当てる。
冷たい金属。
耳を澄ませた。
地面の奥に〈季音〉がある。
冬だ。
細い。
弱い。
それでも確かに、湿原の下を冬季脈が走っている。
「生きてる」
「凍結杭ですか?」
「ああ」
リディアがすぐに杭の根元を調べ始める。
古い蓋を開くと、内部に簡素な流量器があった。
「現在出力、平常冬季の18パーセント」
「低いな」
「第四十八季塔側で絞られている可能性があります」
「春に食われてる?」
「表現は雑ですが、可能性はあります」
「雑って言わなくてもよくない?」
「正確ではありませんから」
やっぱり歩く計器だ。
「黒柳から先にも杭は?」
レイが伝令へ聞く。
「あります! 昔は200メートルごとに立ってました!」
「今も?」
「残ってるはずです!」
「使ってる?」
「北側の区間だけです。こっちは何年も触ってません!」
嫌な情報だった。
何年も触っていない設備を、今日いきなり人命救助に使う。
環暦士になってから、こういうものを何度見ただろう。
たぶん今後もっと見る。
嬉しくない成長予測だった。
「行くぞ」
レイが板を持つ。
「待ってください」
リディアが止めた。
「何」
「私が先です」
「なんで」
「あなたは季音を聞くことに集中すると足元を見なくなる」
「ならない」
言った直後、一歩目で泥に靴が沈んだ。
リディアが無言で見る。
「……今のは道が悪い」
「そうですね」
絶対信用していない。
◆
氷路は、近くで見ると想像以上に危なかった。
表面には細い亀裂が走り、その隙間から水が染み出している。
冬の氷の上に、春の水が乗っている。
板を敷き、体重を分散させながら進む。
そりには縄、工具、簡易担架。
伝令を含め、救助に向かうのは6人だった。
レイ。
リディア。
街道管理所から来た3人。
そして伝令。
200メートルほど進んだところで、二本目の凍結杭が見つかった。
半分ほど氷に埋もれている。
「止まって」
レイが手を上げた。
杭に触れる。
耳を澄ます。
「こっちはほとんど鳴ってない」
リディアが計測する。
「出力3パーセント」
「次は?」
「確認するしかありません」
また進む。
三本目。
ゼロ。
四本目。
7パーセント。
「バラバラだな」
「系統そのものが不安定です」
「これで氷路保ってたの?」
「本来は第四十八季塔から冬季素が供給されていたはずです。杭は補助でしょう」
なるほど。
普段は塔そのものが湿原を凍らせる。
足りない場所だけ、この杭で支える。
ところが今は塔が春を押し出している。
補助設備もろとも弱っている。
嫌になるほど筋が通っていた。
すると遠くから声がした。
止まっていた荷馬車の集団が見える。
「環暦士か!」
「こっちだ!」
人々が手を振っている。
その直後。
パキン。
今度は近い。
「動くな!」
リディアの声が飛ぶ。
全員が止まった。
レイの右足の30センチ先。
氷に細く長い新しい亀裂が伸びている。
氷の下には黒い水が見えた。
今落ちたらどうなる。
まず冷たい。
次に沈む。
その後はたぶん報告書を書かなくて済む。
……いや、それを利点に数えるのはさすがに疲れている。
「右へ体重を移してください」
リディアが低い声で言う。
レイは言われた通り動く。
板の上へ重心を移す。
亀裂が止まる。
「よし」
「寝不足で湿原に落ちるところだった」
「寝不足は関係ないでしょう」
「気持ちの問題」
「今夜は寝てください」
「グレンと同じこと言うなよ」
「グレン一級環暦士が正しいので」
味方がいない。
◆
取り残された隊は、想像以上に追い詰められていた。
先頭の荷馬車は右車輪だけでなく荷台の半分まで沈み、その重みで周囲の氷を割っている。
馬はすでに外されていた。
そのうち一頭が脚を傷め、横になっている。
「怪我人は!」
レイが声を張る。
「こっちだ!」
荷馬車の裏。
男が一人、倒れていた。
右脚が車体の木枠と氷の間に挟まれている。
出血は多くない。
「いつから?」
「30分くらい前だ!」
「意識は?」
「ある!」
「聞こえてるぞ!」
挟まれた本人が怒鳴った。
元気はある。
ありがたい。
「よかった」
「何がだ!」
「返事できるならまだ大丈夫」
隣でリディアが息を吐いた。
「会話していないで確認してください」
「してるよ」
「どこがです?」
レイは男の脚を見る。
車体を持ち上げれば抜ける。
問題は、その瞬間に荷馬車全体が沈む可能性があることだ。
「荷物、何?」
「鉱石だ」
御者らしい男が答える。
「何トン?」
「4トン近い」
「捨てよう」
「は?」
「荷物」
御者の顔色が変わった。
「待て! これがいくらすると思ってる!」
「知らない」
「今年一番の積み荷だぞ!」
「じゃあ高いんだな」
「そうだ!」
「でも人より重い」
レイは荷台を見る。
「全部降ろす」
「ふざけるな!」
男が詰め寄ろうとする。
リディアが間に入った。
「現状、積載状態での救助は不可能です」
「何とかしろ!」
「何とかするために降ろします」
「金が――」
「沈めば荷馬車ごと失います」
リディアは淡々としている。
「加えて負傷者一名、救助者複数が巻き込まれる可能性があります。積み荷を残す合理的理由がありません」
御者は言葉を失った。
レイは少しだけ感心した。
自分なら「人がいるから」で終わる。
リディアは損得まで数字にして逃げ道を潰す。
相性がいいのかもしれない。
認めるのは癪だが。
「降ろすぞ!」
街道管理所の男が叫んだ。
全員で荷台へ取りつく。
鉱石の袋を一つずつそりへ移し、比較的安全な氷の上へ滑らせる。
全部は助けられない。
途中から袋を開き、中身を氷の上へ捨てた。
重い石が転がる。
御者は苦い顔をしている。
だが止めなかった。
半分ほど降ろしたところで、荷車が少し浮いた。
「まだです」
リディアが氷を測る。
「このまま持ち上げれば、周囲が割れます」
「凍結杭使う」
レイが言う。
「一気に流すのは駄目です」
「分かってる」
「本当に?」
「信用ないな」
「出会って半日です」
「正論やめて」
レイは最も近い凍結杭へ向かう。
隊の横、20メートルほど離れた場所に古い杭が一本残っていた。
手を触れる。
音がある。
弱い。
だが死んでいない。
「リディア」
「はい」
「塔側から冬を入れてもらう。グレンに連絡できる?」
「携帯通信器は届きません。中継杭があれば」
「それ」
レイが凍結杭を見る。
「通信も兼ねてない?」
リディアが蓋を開く。
内部を見る。
「……旧式の季脈信号線があります」
「使える?」
「確認します」
工具を出す手が速い。
これまでのフィアやロウとは違う。
説明する前に、必要な場所へ手が動く。
専門家同士で仕事をするというのは、こういう感じなのか。
少し楽だ。
その代わり気が抜けない。
たぶん自分が変なことをすれば、一秒で指摘される。
「接続しました」
「早」
「普通です」
腹が立つ言い方だった。
リディアが簡易信号器を繋ぎ、第四十八季塔へ短い通信を送る。
【黒柳南二キロ】
【旧凍結杭生存】
【冬季素微量供給要請】
【段階投入】
数秒。
返答が来る。
【了解】
「グレン、塔に着いたみたい」
「では始めます」
「待って」
レイは杭へ両手を当てる。
耳を澄ませる。
遠く。
第四十八季塔。
そこから伸びる冬季脈。
細い。
春の音に押されている。
「来る」
ゴォ……。
杭の下で音が変わった。
冬季素が流れ込む。
「流量12パーセント」
「そのまま」
「氷温低下、毎分0.3度」
「速い?」
「表層だけなら許容範囲です」
「じゃあ次の杭」
「ここだけでいいのでは?」
「一か所に集めたくない」
レイは周囲へ耳を澄ませる。
「氷の下で音が逃げてる。三本に分けた方がいい」
リディアは一瞬考えた。
「荷重を分散させる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「聞こえ方では」
「……分かりました。数値はこちらで見ます」
否定しなかった。
それが少し意外だった。
二本目。
三本目。
古い凍結杭へ順に冬季素を流す。
一度に強くは入れない。
少量ずつ。
氷全体を凍らせるのではなく、荷馬車の周囲だけを少しずつ固める。
「一番、8パーセントまで下げて」
「理由は」
「音が硬い」
「意味が分かりません」
「俺も説明できない」
「では数値を見ます」
リディアが測定器を確認する。
「……確かに温度低下が速い。6パーセントまで落とします」
「助かる」
「そのために来ています」
それから20分。
冬季素を上げては下げる。
リディアが氷厚と温度を読み、レイが下の音を聞く。
どちらか一つだけでは足りなかった。
「今なら?」
「荷馬車右側、支持力が約1.7倍。まだ余裕はありません」
「人だけ先に抜く」
「同意します」
縄を掛ける。
荷馬車の車体へ支点を作り、全員で少しだけ持ち上げる。
「せーの!」
木が軋む。
男が叫ぶ。
「抜けた!」
脚が外れる。
担架へ乗せる。
その直後。
バキッ!!
「離れろ!」
荷馬車の前部が沈んだ。
氷が割れる。
黒い水が噴き上がった。
レイの足元まで亀裂が走る。
「レイ!」
リディアの声。
身体が傾く。
右足が氷を突き抜けた。
「っ!」
冷たい。
考えるより先に、腕を掴まれた。
リディアだった。
「板へ!」
「分かってる!」
「分かってる人は落ちません!」
「今それ言う!?」
二人で板の上へ倒れ込む。
レイの右脚は膝まで濡れていた。
痛いほど冷たい。
だが抜けた。
背後で、荷馬車がさらに沈む。
荷台に残っていた鉱石ごと、ゆっくり水へ傾いていく。
御者が顔を歪めた。
それでも誰も荷馬車へ戻らなかった。
「人は!」
レイが叫ぶ。
「17人、全員います!」
「馬!」
「8頭! 一頭は――」
言葉が止まる。
傷を負っていた一頭が、割れた氷の向こう側にいる。
起き上がれない。
水が近づいている。
ロープを回すには、もう氷が持たない。
「行くな」
リディアが言った。
レイも分かっていた。
分かってしまった。
行けば、人間まで落ちる。
それでも馬は首を上げ、こちらを見ている。
御者が拳を握った。
「……俺の馬だ」
誰も何も言えなかった。
氷が割れる。
水が広がる。
御者が目を閉じた。
レイも視線を逸らさなかった。
やがて、湿原は静かになった。
「戻ります」
リディアが低く言った。
誰も反対しなかった。
◆
帰路は遅かった。
負傷者をそりへ乗せ、板を敷き直しながら進む。
助かったのは17人。
荷馬車一台と鉱石の大半、それに馬一頭を失った。
成功かと聞かれたら、たぶん成功なのだろう。
人は死んでいない。
でも「全員助かった」と喜べるほど、綺麗でもなかった。
リュネ村でもそうだった。
直せば全部元通りになるわけじゃない。
どうやら仕事というものは、経験を積むほど気持ちよく終わらなくなるらしい。
新人の頃の方が幸せだったかもしれない。
まだ実務生だけど。
「レイ」
リディアが呼ぶ。
「何?」
「足」
「動く」
「そういう意味ではありません」
濡れた右脚を指される。
「街へ戻るまでそのままだと凍傷になります」
「春なのに?」
「気温は冬です」
「ややこしいな、この街」
「街のせいではありません」
正論が多い。
フィアならもう少し雑に怒る。
――何で今フィアが出てくる。
レイは自分で少し困った。
「休憩します」
「でも」
「17人救って18人目を増やす気ですか?」
「俺を数えるなよ」
「人間でしょう」
「一応」
「なら座ってください」
有無を言わせない。
レイは板の上へ座る。
リディアが予備の布を渡した。
「靴を脱いで水を拭いてください」
「はい」
「素直ですね」
「怒られるの慣れてるから」
「誰に?」
「いろいろ」
グレン。
フィア。
たまにロウ。
最近多い。
立派な環暦士になる前に、怒られ慣れだけが一級へ上がりそうだった。
濡れた靴下を絞る。
冷たい。
最悪だ。
「さっき」
リディアが測定器を片づけながら言う。
「何?」
「あなたが聞いた音に、数値が追いつきました」
「凍結杭?」
「はい」
彼女は記録紙を見せる。
三本の杭。
冬季素の投入量。
氷温。
支持力。
「一番杭だけ、同じ流量でも温度低下が速かった。あなたが『音が硬い』と言った箇所です」
「便利だった?」
「便利という言葉は好きではありません」
「じゃあ?」
リディアは少し考えた。
「有用です」
「ほぼ同じじゃん」
「違います」
たぶんこの人とは、こういう話を何度もすることになる。
そんな気がした。
「でも」
リディアが続ける。
「季音だけで判断されると困ります」
「分かってる」
「本当に?」
「音を信じろ。音だけは信じるな」
グレンの言葉をそのまま返す。
リディアがこちらを見る。
「アルディス一級環暦士の教えですか」
「ああ」
「珍しく合理的ですね」
「本人に言っていい?」
「やめてください」
初めて少し焦った顔をした。
レイは笑った。
◆
ノルクへ戻った頃には、もう日が傾いていた。
街道管理所では歓声が上がった。
負傷者はすぐ治療所へ運ばれ、他の者たちも濡れた服を替えるため散っていく。
ドミトは人数を自分で数えた後、深く息を吐いた。
「17人」
「ああ」
「全員、生きてるな」
「ああ」
「……そうか」
それだけ言って、しばらく黙った。
荷馬車や鉱石のことは聞かなかった。
たぶん後で聞く。
今は、それより大事な数字がある。
「塔へ行く」
レイが言った。
「その脚でですか?」
後ろからリディア。
「乾いた」
「完全には乾いていません」
「もう歩ける」
「歩けることと、行くべきことは別です」
「グレンに報告しないと」
「私がします」
「十三番目の音も確認したい」
「それは――」
リディアが止まる。
そこは反論しづらいらしい。
「一回着替えてから」
「……それなら」
「譲歩された」
「あなたが少し学習しただけです」
どっちでもいい。
◆
第四十八季塔へ戻ると、グレンは一階の測定室にいた。
「遅かったな」
「17人連れてきたから」
「聞いてる」
グレンの視線がレイの右脚へ落ちる。
「落ちたか」
「何で分かる?」
「靴だけ色が違う」
借り物の靴だった。
「膝までいった」
「なら次は落ちるな」
簡単に言う。
レイは机へ湿原の記録を広げた。
「凍結杭、生きてた。冬季脈も通ってる」
「こっちでも確認した」
「春が入ってた?」
「いや」
グレンが首を振る。
「それが妙だ」
レイとリディアが同時に見る。
「湿原へ伸びる冬季脈そのものには、春季素はほとんど混ざってない」
「じゃあ何で弱ってた?」
「供給先を奪われてる」
グレンが第四十八季塔の図面を指す。
「冬季素が消えてるんじゃない。塔の内部で別経路へ回されてる」
レイは図面へ近づく。
「どこに?」
「それを探してた」
グレンが一本の線を引く。
十二月輪。
そこから現行図面にはない位置へ。
「お前が言ってた、一月輪への干渉」
「ああ」
「さらに奥がある」
レイは耳を澄ませた。
塔の十三番目の音。
高く、細い。
春を押すような音。
だが今は、少しだけ聞き分けられる。
十三番目から春へ流れているのではない。
冬側から何かを受け取り、それを別の形で春へ渡している。
「……変換してる?」
口から出た。
グレンが見る。
「何を」
「冬を減らして春を増やしてるんじゃない」
レイは塔の中心を見る。
「冬の終わりを使って、春を作ってる」
リディアがすぐ記録紙へ目を落とす。
「季節転換」
「たぶん」
「現行設備にも季節移行はあります。しかし、これほど直接的な変換機構は――」
「ない」
グレンが言う。
「今はな」
その言葉に、部屋が少し静かになった。
今はない。
昔はあった。
十三月が普通に存在していた頃には。
レイは第四十一季塔を思い出す。
冬を吸い込み、吐き出し、十三基を繋いでいた古い環。
ここでは、冬の終わりを春へ渡している。
十三月が季節を増やすものではなく、季節と季節の間を繋ぐものだという仮説。
その輪郭が、少しだけ濃くなった。
「地下へ行くのか?」
レイが聞く。
グレンは図面を畳んだ。
「ああ」
ようやく。
今度こそ、第四十八季塔の下を見る。
そう思ったところで、リディアが口を開いた。
「その前に食事です」
レイとグレンが同時に彼女を見る。
「何で?」
「昼からまともに食べていません」
「食べた」
「干し林檎二枚は食事に入りません」
「見てたの?」
「見えました」
グレンが頷く。
「正しい」
「また味方いない」
「地下は逃げない」
「十三月は動くけど」
「30分で世界は終わらん」
「それ、信用していい?」
「たぶんな」
「師匠がたぶんって言うなよ」
リディアが小さく息を吐いた。
「食堂へ行きますよ」
その言い方が、ほんの少しフィアに似ていた。
そう思ってしまったことは、誰にも言わないことにした。




